「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 114/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012他人の不幸や苦痛を見過ごしに出来ない心が仁(愛)であると説く。特に仁愛の心を比喩的に説くために、孟子は今にも井戸に落ちようとしている幼児を目の前にすれば、誰....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012他人の不幸や苦痛を見過ごしに出来ない心が仁(愛)であると説く。特に仁愛の心を比喩的に説くために、孟子は今にも井戸に落ちようとしている幼児を目の前にすれば、誰もがとっさに手をさしのべて助けようとするという「井戸に落ちる幼児の譬え」を引用する。このような「憐れみの情」は誰の心の中にも存在するものであり、それがまさに仁に他ならないと孟子は言う27。この比喩は、マンデヴィルの「蜜蜂物語」の「囚人の寓話」と酷似している。また無差別な愛としての「兼愛」(博愛)こそが真の愛であると主張する墨子の思想も人道思想と対比されるだろう。墨子は、孔子の仁愛思想は身内への偏った差別的な愛であるとして「別愛」と呼び批判した28。墨子によれば、真の愛とは近親者や自国民への偏愛を超越したものでなければならない。これは国境を越えた他者への利他的行為を意味する近代的な人道主義と価値を共有している。なお、人道の同義語として広く使用される「博愛」の語は、唐の韓愈(768~824)が『原道』の冒頭で仁義道徳について論じた「博く愛する之れを仁と謂い、行ひて之れを宜しうする之れを義と謂ひ是れに由って之く之を道と謂う。(博愛を仁といい、宜しきを義といい、義にしたがってゆくを道という。)」29に由来すると思われる。4.仏教思想の慈悲仏教思想においても人道思想は等しく見ることができるが、仏教における「人道」の語は、人間が迷いから悟りの境地に至るまでの六段階(六道輪廻)の第五段階にある「人間界」を意味し、博愛としての「人道」の意味とは全く異なる。むしろ、仏教思想では「慈悲(daya,anudaya)」の方が博愛としての人道の意味に近いだろう。慈悲は、元来、ミトラ(mitra=友)に由来し友愛を意味する「慈(マイトリー:maitri)」と、他者の苦に同情し、これを救済する思いやり(仏教では「抜済」又は「抜苦」という)を意味する「悲」(カルナー)から成る合成語で、「他者に利益や安楽を与える慈しみ(仏教では「与楽」という)や憐れみの心」30を意味するとされる。「慈悲」が友愛を意味するマイトリーや憐れみの心を含意することは、キケロが愛の原初形態を友愛の中に見出だしたのとよく似ている。また「カルナー」とほぼ同義的に使われ、「憐れみ」を意味する「アヌカンパー(anukampa)」の原義が「共に震える」3「共感する」の意1であることを考えると、慈悲の思想は、共感する感情に人間の本性を見ようとしたルソーやスミス、ショーペンハウアーらの思想と瓜二つであるともいえる。もっとも西欧的な人道思想と仏教思想の人間観はかなり対照的である点は見逃せない。シェーラーの指摘にもあるように西欧由来の人道主義は、人間と動物その他の生物を峻別し、理性を持つ存在としての人間を他の動物より優位に置く人間中心主義の思想が基軸にある。これに対して仏教思想の人間観は、人間とその他の生物―動植物―を本質的に区別せず、同じ衆生(しゅじょう=いきもの)として見る点で異なっている。これは近代的な西欧主義としての人道主義が否応なく人間中心主義を内在し、地球環境や自然の破壊をもたらしたことを顧慮したとき、西欧由来の人道主義の限界との対比において東洋的な人道思想の可能性を探る上でも見逃せない点である。112人道研究ジャーナルVol. 1, 2012