「人道研究ジャーナル」創刊号 page 129/216
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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012都市化と兵士の移動があげられている。植民地インドに駐留している英国人兵士がコレラを知ったのは1821年のことであった。嘔吐、筋肉の痙攣、胸の痛み、水のような下痢....
Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012都市化と兵士の移動があげられている。植民地インドに駐留している英国人兵士がコレラを知ったのは1821年のことであった。嘔吐、筋肉の痙攣、胸の痛み、水のような下痢、そして脱水症状が起き、感染者の半数以上が死に至る。英国では経験したことのない恐ろしい伝染病が兵士たちを襲い、一昼夜のうちに命を奪ったのである。そのコレラが中近東を経てロシアに広がり、1831年、ついに英国へ渡ってきた。スティーヴン・ジョンソン(矢野真千子訳)によると3)、その年の夏にロチェスターにそそぐメドウェイ川に停泊していた船団の中で集団感染が起きたのが始まりとされている。それからロンドンに蔓延し、北はエジンバラへと感染は拡大した。1832-3年、コレラ感染が終結するまでに感染者の数はイングランドとウェールズで2万人を超えたということである。メアリー・ドブソン(小林力訳)によると4)、ロンドンでは1832年だけで約5000人を超える死者が出た。ロンドンへ到達したときには誰もコレラの正体を知らなかった。その頃すでにロンドンは産業資本主義が生みだした貧困層と富裕層との格差が増大し、貧困層社会には失望、退廃、堕落が蔓延していた。富裕層といえば、ナイチンゲール一家はその代表格にあたるかもしれない。17世紀の市民革命から次第に英国貴族の衰退は続き、富裕層から離脱していった。代わって市民階級の中から大資本家が現れ、富裕層に加わるようになったのである。ナイチンゲールの父ウィリアム・ショア(William Shore)は市民階級の出であったが、大資本家であった伯父ナイチンゲール(Nightingale)が所有していたダービシャーの広大な土地を相続し、富裕層の仲間入りをして貴族さながらの生活を送っていた。ダービシャーのリハーストとハンプシャーのエンブリーに大邸宅を持ち、政府の高官や貴族の家系の有力者を招いては園遊会や晩餐会に明け暮れていた。ナイチンゲールの家族にも当てはまる退廃と堕落は、富裕層の中にはそれなりに存在していたのである。5ピーター・ヴィンテン-ヨハンセン他)によると、コレラを擬人化し、そうした退廃、堕落の蔓延る社会を破壊していく恐ろしい死の使いとして考える医者がいた。政治家でもあった内科医ケイ-シャトルワース(James Phillips Kay-Shuttleworth)であるが、コレラの大流行を社会改革の機会と捉えた。コレラは死の使いとなって、貧困家庭に、狭苦しい裏通りに、貧民が群がるように生活している袋小路を襲い、続いて中流階級から上流階級の家庭へと向かう。非科学的発想からつくり出されたその死の使いは資本主義社会に蔓延する退廃、堕落を一掃してくれる、いわば世直しのための破壊者ということなのである。このとんでもない理屈を支持する人はいなかったようであるが、コレラの流行を社会改革と積極的な公衆衛生施策への自覚を促す絶好の機会と考えていたことは歴史的には意味のあることであった。唯一つこの仮説で間違っていたことは、上流階級の家庭にはコレラがあまり及ばなかったということである。上水道の設備が整い、テムズ川から遠く離れて、常に清潔な環境で生活していた人々はほとんどコレラの感染を免れていたのである。功利哲学者ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)の秘書をしていた弁護士チャドウィクが救貧院(Workhouse)改革委員長になった。彼はコレラの流行が治まると救貧院改革に現実的な施策を打ち出した。1834年には新救貧法(New Poor Law)制定に尽力した。その救貧法の目的は貧困への対応を一極集中させることであった。彼は救貧委員会を設置し、財政基盤に基づいて地域に人道研究ジャーナルVol. 1, 2012127