「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 130/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012大規模な救貧院を建設した。救貧院は貧民の屋内救済を提供することになった。救済といっても、入院してきた貧民に対しては福祉を施すのではなく、不快感を与えて、職を....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012大規模な救貧院を建設した。救貧院は貧民の屋内救済を提供することになった。救済といっても、入院してきた貧民に対しては福祉を施すのではなく、不快感を与えて、職を求めさせる意欲を持たせようとするものであった。表面的には国民の福祉を機能させているように見えるが、実際は貧民を怠け者扱いし、卑下と差別が支配していた。当時の英国社会の一般的風潮として退廃や堕落という言葉は貧民にだけ使えるものであって、上流階級の富裕層には当てはまらなかった。貧民はただ貧しいというだけで卑下され、堕落していると決め付けられたのである。チャドウィックは救貧院の中に病人が多いのに気付き、病院を付設した。外科医を付属病院に付き添わせた。看護師も雇われた。しかし、新しい制度が始まって時間がたつうち、チャドウィックはその制度が彼の計画していたようには機能していないことを悟った。貧民は怠け者であるがゆえに貧民になったのではなく、病がひどいがゆえに雇用条件に適わずに職につけないということを知ったのである。救貧院に来る貧民のほとんどが貧しい病人であった。付設病院は急遽増築されることになった。1837年までにチャドウィックは方向転換をし、国家に貧困の負担を減らすために、病気の予防に焦点を合わせた。貧困と流行病との関連を明確にして、予防策を投じたいと思っていたチャドウィックは医師以外にも統計学者や他の科学者を取り込んで公衆衛生調査を実施した。彼らはチャドウィックの「瘴気説」を支持する学者たちであった。医療アドバイザーとしてベンサムと親しい交わりがあったトマス・サウスウッド・スミス(Thomas Southwood Smith)医師に援助を要請した。サウスウッド・スミス医師は1830年頃から貧民及び公衆衛生と流行性熱病との関係を研究していた。1838年、サウスウッド・スミス医師はニール・アーノット(Neal Arnott)医師やケイ-シャトルワース医師らとロンドン東部地域における貧民の実態に関する報告書を貧民救済委員会に提出した。ナイチンゲールは1846年にその報告書を読んでいる。6)さらに、1842年に労働者の衛生状態の報告書が作成された。街の健康を管理する王立委員会が1843年に設置され、公衆衛生法が1848年に成立した。公衆衛生法令の成立によってチャドウィックとサウスウッド・スミスの努力は一応完結した。3. 1840年代後半のナイチンゲール1845年、ナイチンゲールは看護の道へ進む決心をさせるいくつかの大きな出来事があった。その一つは祖母ショア夫人が重病に罹ったことであり、次に乳母ゲール夫人の病と最期であり、最後の一つはウェロー村での貧しい病人の死であった。特に最後のウェロー村の出来事はナイチンゲールに看護を志させる大きな動機となった。ナイチンゲールはエンブリー・ハウスから数マイル離れたソールズベリー病院に通って看護の勉強をする計画をたてた。その病院の医長ファウラー医師(Dr Richard Fowler)のもとで3ヶ月間看護を学ぶ決心をした。ファウラー医師はすでに、看護師を目指すナイチンゲールの才能に気づき、しばしば相談にのっていたのである。その年の暮れにファウラー医師夫妻がエンブリー・ハウスに来て滞在した。夕食の席でナイチンゲールは両親に自己の計画を打ち明けた。彼女は医師が自分の後ろ盾になってくれると思い、打ち明けたのだが、両親はその計画を聞くと間髪入れずに猛烈に反対した。その反対の激しさにファウラー医師は驚いてしまい、両親の意見に同調してしまった。128人道研究ジャーナルVol. 1, 2012