「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 131/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012両親はナイチンゲールがソールズベリーへ行くことを禁じた。邸宅内に閉じ込められてしまった彼女は失望のあまり、自殺を考えたほどであった。この時からナイチンゲール....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012両親はナイチンゲールがソールズベリーへ行くことを禁じた。邸宅内に閉じ込められてしまった彼女は失望のあまり、自殺を考えたほどであった。この時からナイチンゲールは部屋にこもって、政府白書や病院や公衆衛生関係の報告書などを読み、思索に耽るようになった。ナイチンゲールはこの1845年からカイザースヴェルト学園へ留学が叶った1851年までの6年もの年月、看護への道を断念させられ、悶々として過ごした。しかし、この間は決して無駄なものではなかった。第一に公衆衛生と病気とのかかわりをじっくり勉強できたことは非常に大きな収穫であった。「瘴気説」を知り、さらにそれを看護という視野に定めて、展開する基盤づくりができたのであった。4.ジョン・スノーの発見1848年には公衆衛生法令ができ、検疫官が任命された。さらに、人口統計学者ウィリアム・ファー(William Farr)によって、公衆衛生に統計が導入され、医師に対して死亡報告書に病名と死因、さらに年齢、職業などを正確に記すよう義務付けられた。チャドウィックの公衆衛生の改革はほぼ完成期を迎えていた。しかし、この年から1849年にかけて再びコレラがイングランド地方を襲い、5万人の死者を出したのである。ロンドン疫学協会の創設者の一人であるソーホー地区の歯科医ジョン・スノー(John Snow)は「瘴気説」に批判的であった。1854年、三度目のコレラ流行の際、ブロード・ストリートの井戸水のサンプルから高濃度の塩化物を含んだ白い粒子を発見したが、コレラ菌である確証を得ることができなかった。彼はウィリアム・ファーの友人であった。ファーは1838年から戸籍本署に勤務し、医師に対し、死亡報告書に死因を情報として書くように指示していた。スノーはファーからその情報を入手することができ、井戸水の飲料者の動きのデーターを集め、死因を究明した。そして、地下水脈の流れと汚水溜めとの繋がりを発見し、水とコレラの因果関係を証明したのである。7)しかし、コレラ菌は30年後の1884年にドイツの医師コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch)が発見した。「瘴気説」を主張し、建物の地下の肥溜槽から直接テムズ川へ流す下水施設に切り替えて悪臭の排除に力を入れたチャドウィック等の衛生行政が裏目に出た。悪臭ではなく汚染された水が原因でコレラに罹ると判明すると、テムズ河の水を生活水として利用してきたロンドン市民に大きな衝撃を与えたのである。スノーのコレラ発生源の発見によってロンドンの公衆衛生は根本から見直されることになったのである。しかし、チャドウィックに影響を受けて、看護を模索してきたナイチンゲールにとって、病気の原因究明は看護の領域とは一線を画しているところでの出来事に過ぎなかったようである。彼女は病気の看護ではなく、病人を看護することを強調しており、手術後の感染病の予防や衛生面の管理、そして貧しい病人に生きる希望をもたらすことにこそ看護がなされなければならない仕事であると確信していたのである。5.コレラ患者へのナイチンゲールの反応からナイチンゲールは1854年「病める貴婦人のための病院」で、キングス・カレッジのボーマン(William Bowman)外科医が麻酔を使った癌の摘出手術を看護師として手伝った。その時、ナイ人道研究ジャーナルVol. 1, 2012129