「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 135/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012その原稿を作成中のある日、「日本赤十字」と『日本赤十字社史稿』の記述の相違点を見つけた。ハイデンで療養生活をしていたHenry DunantをG. Baumbergerが見つけ出し....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012その原稿を作成中のある日、「日本赤十字」と『日本赤十字社史稿』の記述の相違点を見つけた。ハイデンで療養生活をしていたHenry DunantをG. Baumbergerが見つけ出し、彼の窮状を世に伝えたのは1895(明治28)年8月16日であった。その話が東京朝日新聞に掲載されたのは、翌年の10月10日のことである。日本赤十字社は、わが国も赤十字創始者に手を指しのばすべきだと考え、折しもウィーンで開催される赤十字会議へ出席することになっていた有賀長雄に見舞金を託した。この額が「日本赤十字」と『社史稿』では異なっている。「日本赤十字」第51号(1897(明治30)年7月21日発行)では、2,000スイスフラン(760円) 5とし、『社史稿』(1911(明治44)年12月発行?)には1,000フランとある6。Dunantは、この寄付を受け取らなかったし、金額そのものは大した問題とは言えないかもしれない。月刊誌である「日本赤十字」と『社史稿』を考えると、常識的には後者の説を取るのが当然かと思う。しかし、このようなどうでも良いようなとても些細なことが気になる。ICRCのアーカイブスで日本赤十字社から発信された文書を見ていた時に、その書簡は姿を現してくれた。求めていた解答がそこにあった。「日本赤十字」の記述に軍配があがったのである。『社史稿』が絶対でないこと、そして印刷にはミスプリントが避けられないことを指摘できるエピソードではないか。ICRCのアーカイブスに日本赤十Henry Dunantに2,000スイスフランを贈呈する旨の日赤初代社長字社からの文書が保管されていなかっ佐野常民からICRC総裁Gustave Moynier宛てに送られた1897年7月7日付け書簡(ICRCアーカイブス)たなら、今でも謎のままになっていたであろう。ICRCのアーカイブスについてICRCの総会は2004年4月29日付けで史料公開の内部規則を変更した7。すなわち、1996年に定めた文書公開期限を60年から40年に短縮し、1951年から1965年の文書を一般市民に公開したのである。こうすることで、1996年に定義した「公開性」と「透明性」のポリシーを再確認し、さらに一歩も二歩も進めたと評価できる。1970年~80年代に、ICRCは第2次世界大戦中の活動について、疑問視する声を多数受けた。対話というよりも、あまりにも防御的な姿勢であったために、ICRCの当時の活動に対する疑念を払拭できるどころか、一層助長した。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領Philipp EtterやICRC委員長のCarl JacobBurckhardtは、ファシズムよりも共産主義の拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした。強制収容所に送られたICRCの派遣員Maurice Rosselは、BBCのイ人道研究ジャーナルVol. 1, 2012133