「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 139/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012ICRCアーカイブスを訪ねて(1)秋山綾子流れるような美しいペン字で、フランス語が綴られている。赤十字マークに桐竹鳳凰、そして「社字十赤本日SOCIETE JAPONAISEDE ....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012ICRCアーカイブスを訪ねて(1)秋山綾子流れるような美しいペン字で、フランス語が綴られている。赤十字マークに桐竹鳳凰、そして「社字十赤本日SOCIETE JAPONAISEDE LA CROIX-ROUGE」と印字された便箋の日付は、“Tokyo, le 3 octobre 1910”、差出人は、“Marquis Matsukata”(松方侯爵)、日本赤十字社第2代社長である。ICRC会長ギュスターブ・モワニエ氏の逝去に際し、人道を実現した業績に対する尊敬の念と惜別の思いを伝える公文だ。それが今、目の前に広がっている。「32」と書かれた同じ青い箱から、もう1つの紙ばさみを持ち上げる。ひもを解くと、さらさらと出てくる各国赤十字社の便箋の中に、先と同じ松方侯爵名、右上の日付は“Tokyo, le8 novembre 1910”約1ヵ月後を示す手紙が見つかる。今度はアンリー・デュナンの死を悼んでいる。ソルフェリーノの戦いやジュネーブ条約に触れながら、今や日赤でも200万人のメンバーを抱える組織となったことを示す。先のものより細いペンを用い、大きく、真横に決してぶれることなく文字が続いていく。誰の手によるのだろうか。思わず、書き手の性格や職歴を想像する。これら2通の手紙は、ICRCアーカイブスの最も初期の資料目録である「1863 ? 1918」の「Group A F“Ancien Fonds 1863 ? 1914”」に分類されている第32箱デュナンとモワニエの逝去に関する紙ファイルに、一見無造作に、しかし破損しないよう工夫され収められているものである。AFグループには48箱以上があり、ドイツ(Allemagne)から始まる国別の箱やICRCの活動報告、バルカン戦争や政府との往復書簡、ナイチンゲール記章、アンリー・デュナン等の箱から成っている。一つひとつの箱には、文書群に分類されたいくつかの紙ファイルが入っており、1つの紙ファイルの多くは複数の案件を含み、それらの案件ごとに通し番号が振られていたり、細目の目録が作成され一緒に保存されていたりする。AFグループの次はC-SグループICRCの業績編1914年から1918年があり、次はFRPRグループ普仏戦争バーゼル支部報告1870年から1871年へと続く。この調子で1冊の目録が複数のグループから成る中で、日赤関係の資料に当たりをつけようとすると、世界史と日本史、そして日赤社史が頭をよぎり、「あの頃日本は」「あの名前はたしか」と何度も不確かな記憶の中の年表を反芻することとなる。先の東浦教授の報告にあるとおり、ICRCのこうした史料保管庫は、1ラック片面12段、奥行き4ラックほど(1段には紙の箱ファイル3個が収まる)、ラックの総延長は20キロ以上に及ぶという。これは、ICRCの重要な任務である安否調査の記録とは別にしてである。現在「1863 ? 1918」、「1919 ? 1950」、「1951? 1965」の3冊の目録が公開されている。今後は10年単位で次の目録を公開予定と聞く。その、めくるだけでも時間が飛ぶように過ぎていく興味深い目録から、自分の探したい文書にやっと巡り会い、淡青色の資料請求シート(Demande de document/ Request fordocument)に名前、サイン、探したい書類の入っている箱番号、タイトル、日付を記入して司書に手渡す。暫くすると、保管庫から該当の箱が探し出され、台車で閲覧室へと運ばれてくる。教授に勧められ、時代を下り第二次世界大戦中のICRC駐日事務所の代表であるパラビッ(1)日本赤十字学園法人本部事務局人道研究ジャーナルVol. 1, 2012137