「人道研究ジャーナル」創刊号

「人道研究ジャーナル」創刊号 page 66/216

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Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012東日本大震災:赤十字・赤新月運動における25年間の災害活動に基づく考察ビヨン・エダー(1)東日本大震災と津波2011年3月11日、午後2時46分、本州の北東部は、沖合12....

Journal of Humanitarian Studies Vol. 1, 2012東日本大震災:赤十字・赤新月運動における25年間の災害活動に基づく考察ビヨン・エダー(1)東日本大震災と津波2011年3月11日、午後2時46分、本州の北東部は、沖合120 kmを震源とするマグニチュード9.0の地震に襲われた。それは1900年以降、世界で記録された4番目に大きな地震であり、日本では史上最大の地震であった。山がちな東北地方を襲った巨大津波は、狭まった湾内や川沿いで40mの高さに達し、1時間足らずの間に、海岸線700 kmもの広範囲にわたって地域社会を壊滅させた。最も被害が大きかったのは、岩手、宮城、福島の各県である。19,000人以上が死亡または依然として行方不明であり、6,000人が負傷した。死者の90%は、冷たい水中での溺死であった。死者の65%以上は、60歳を超えていた。津波は、福島の原子炉3基にも深刻な損害を与え、チェルノブイリでの1986年の大惨事以来となる大規模な事故を発生させた。死者は事実上、地震によるというよりも、すべて津波によるものであり、避難の理由も津波と原子力事故であった。破壊された福島第一原子力発電所の原子炉から20 km圏内の住民を含めて、40万人以上が仮の避難所に避難した。公共および産業インフラは甚大な破壊を被った。冬の寒さが、避難者の生活をいっそう困難にした。地方自治体とボランティアが、大量の食糧や水、日用品、燃料、医薬品を配布した。その多くは、大きな連帯感の表れとして、比較的被害の少なかった地域や日本各地の人々から寄付されたものであった。企業や近隣県・市町村の職員も支援に駆け付けた。自衛隊、消防、海上保安庁、警察の人員が全国からすばやく動員され、500人の原子力災害対応チームとともに援助を行った。2,000班以上の医療チームが被災地に入った。全世界から、国や機関が自主的に捜索・救助・救援への支援を申し出た。米国と韓国の軍隊もすみやかに対応し、艦船、航空機、人員を派遣した。震災後の復興費用は、2010年の国内総生産の2.5%から4%になると試算されている。日本赤十字社(日赤)の対応地震発生時には、東京でも非常に激しく建物が揺れた。日赤本社のスタッフは、これが日本で毎日のように発生する地震とは比べものにならない大地震であることを、ただちに実感した。日赤は、国の災害管理計画の下で責務を果たすために、よく準備された計画を持ち、それを非常に効果的に実行した。日赤はただちに行動を開始し、最初の24時間で46の医療チームを被災地に展開した。市町村を通じて被災者に義援金を届けるため、全国的な募金運動を立ち上げた。これまでの1年間で、900班近い日赤医療チームと心のケアの専門家700人が、未曾有の大災害でショックを受け、弱い立場に置かれた被災者、約9万人の手当を行った。(1)2011年3月から国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)の日本担当代表。1988年にスウェーデン赤十字社で防災・災害対応担当。2000年から2010年まで同社の国際部長。それ以前は中東と西アジア担当、アジア・ヨーロッパ・南北アメリカ地域救援課長として働いた。1994年から2000年まで、IFRCのスタッフとして、バングラデシュ事務所長、中東・北アフリカ地域担当、ジュネーブでのヨーロッパ部長などの職を歴任した。戦争、サイクロン、地震、竜巻、洪水、干ばつ、寒波などの被害者や被災者への支援、難民の救援、治安と復旧の推進や、多くの防災・組織構築プログラムを担当。2004年のインド洋津波では、スリランカでの復旧評価チームの指揮を執った。赤十字に入る前は、20年にわたり教職に就いていたが、インド南部とバングラデシュでスラム地区および農村開発のボランティア活動にも参加していた。64人道研究ジャーナルVol. 1, 2012