「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013〔新刊紹介〕『赤十字標章の歴史~“人道のシンボル”をめぐる国家の攻防~』フランソワ・ブニョン著・井上忠男訳東信堂刊識別手段としての紋章赤十字標章のような標章(emblem)の起源は、ヨーロッパ中世の紋章(heraldic emblem又はarms=紋章楯)にまで遡るといわれ、ミシェル・パストゥローの「紋章の歴史」によれば、その起源は、もともと戦場において騎士が互いに敵と味方を識別する手段として用いたものであり中世ドイツで使われた紋章が最古のものとされる。赤十字標章について規定するジュネーヴ諸条約においても、赤十字標章をheraldic emblem of the redcross(ジュネーヴ第一条約第38条ほか)と表記していることから、これが紋章に由来する標章であることが推察される。また森護の「紋章の切手~切手で綴る紋章史話」によれば、紋章はヨーロッパと日本においてのみ見られた伝統だとされ、「中世ヨーロッパのキリスト教支配の貴族社会を背景に、騎士個人を識別するため、楯に描いたシンボルで、代々継承された制度」としている。それに都合のよい道具として騎士が戦場に携行する盾が選ばれたのだという。しかし、古代ローマの戦闘においても、兵士が自軍を象徴する軍旗(vexillum)を表示した慣行が見られたことから、それらを紋章の一種と考えれば紋章の歴史はもっと古いことになる。いずれにしろ、赤十字標章のルーツとなった紋章自体が、戦場において敵と味方、あるいは個々の騎士を識別することが目的であったことを想起すると、今日のジュネーヴ諸条約が条約で保護されるものを「識別」するために表示するという慣行は、西欧文化に深く根ざした発想であるといえるかもしれない。歴史的文献から繙く赤十字標章の歴史さて、表題の著書は、世界中で広く知られる赤十字標章(Red Cross emblem)のなりたちを外交会議の議事録から解き明かした著者の代表的著作の邦語訳である。赤十字標章は、戦場で傷病兵の医療救護活動に従事する医療要員や医療施設・資機材を識別して保護するために1863年の赤十字規約第8条で初めて規定され、翌1864年のジュネーヴ条約第7条で初めてその使用が国際条約により認められた。それは、赤十字の創設者アンリ・デュナンの祖国スイスに敬意を表し、スイスの国旗の色を逆転して採用された宗教的な意味のない標章とされてきた。しかし、その起源は本当にそうなのか。元来、戦時において医療要員等を保護する国際的な保護標章は、世界共通の唯一の標章であることが望ましいはずだが、なぜ赤十字標章以外に赤新月(RedCrescent)標章と赤の水晶(Red Crystal)標章の三つが並存するようになったのか。その歴史的真実は何か。キリスト教的西欧にイスラム世界、そしてイスラエルを巻き込んで繰り広げられてきた標章をめぐる議論に、アジア諸国や仏教国、ヒンズー教国、そして中南米の非西欧社会はどのような態度で臨んできたのか。そして何よりも赤十字標章の守護神である赤十字国際委員会(ICRC)は、こうした中で何を考え、何を守ろうとして行動してきたのか。外交の場を舞台に織りなされた“人道のシンボルをめぐる国家の攻防”ともいえる標章の統一をめぐる歴史は、国家エゴがぶつかり合う中で理性と英知が「犠牲者の最大の利益」を探りながら際どい妥協を繰り返してきた歴史でもあった。本書は、標章の統一をめぐり繰り広げられてきた外交交渉の真実を会議の議事録から読み解こうとするものである。原著者のフランソワ・ブニョン氏は、赤十字国際委員会法務原則部次長、同委員会国際法・協力部長、国際赤十字・赤新月運動常置委員会委員などを務めた赤十字の重鎮であり、赤十字や赤十字標章の歴史に関する数多くの著作があり、2007年には本書の改訂版ともいえる『Red Cross, Red Crescent, RedCrystal』(赤十字国際委員会刊)を執筆した。しかし、赤十字標章を巡る初期の国際的な議論については本書の方が詳細に記されており、本書は現在でも赤十字標章の歴史に関する最も基本的な文献として評価されているといえるだろう。とはいえ、本書は1977112人道研究ジャーナルVol. 2, 2013