「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013クリミア熱とナイチンゲールCrimean Fever and Nightingale徳永1哲緒言英国はハンプシャー(Hampshire)のイーストウェロー(East Wellow)の林の中に佇む聖マーガレット教会(St.Margaret Church)はナイチンゲールに深い所縁の教区教会である。その教会の敷地内の墓地には彼女の墓碑が静かに立っている。1910年8月13日、鉄道の駅ロムジー(Romsey)からナイチンゲールの遺体を乗せた馬車が、やっと通れる田舎道を抜けて、聖マーガレット教会の敷地内へと入ってきた。狭い沿道には大勢の村人が列をなして、涙のうちにナイチンゲールを迎え入れた。ナイチンゲールが生前愛用していたショールとケープを一緒に納めた棺が墓地に静かに沈められた。墓標を兼ねた記念碑の周辺には花束が高く積み上げられた。ナイチンゲールは、ロンドンの華やかな大寺院ではなく、素朴な片田舎の教会墓地で静かな永遠の眠りについた。逝去後100年が経った現在、ナイチンゲールの記念碑の前に立って、周辺の林を抜けていく風の音を聞いていると何故かさびしい気持ちになってきた。不思議なことにその寂しさはナイチンゲールの寂しさのようにも思えた。生涯、孤独な寂しい世界の住人であり続けたナイチンゲールが、まさにその生前の生き様にふさわしい場所を得て寂しく眠りについているようであった。エンブリー(Embley)に隣接するイーストウェローの村は若い頃のナイチンゲールにとって縁の深い場所であった。慈善活動をしていた母ファニー(Fanny)は家を出る時必ず馬車の上から、飢饉に苦しむ貧しい農民に施しをしていた。若いナイチンゲールはそれを見ていて、貧しい人々の存在を心の奥深く焼き付けた。イーストウェローばかりでなくダービシャー(Derbyshire)のリー・ハースト(Lea Hurst)に隣接するハロウェイ(Holloway)村にも産業資本主義の時代に取り残された織物工場の織工たちが職を失い、貧困生活を送っていた。時代の波に飲み込まれてしまった貧しい村人たちは完全に社会から見捨てられていた。20歳代のナイチンゲールは母親の目を盗んではそうした村の貧民の生活の中に入って、世話をし、支えとなった。貧民や病院にも行けない病人を救うにはどうしたら良いのか、豊かな生活に戻る度に考え続けたが、良い考えは浮かんでこなかった。しかし、彼女の意識は社会制度の改革や政治活動といった方向へむかうことはなかった。少しでも接する時間をつくり、世話をすることで頭はいっぱいであった。外出を禁じられたときは、自分の無力さを責め、自虐的になることさえあった。こうした内向的な性格の傾向は、1854年に看護師団長としてクリミア戦争に従軍した時にも続いた。ナイチンゲールのスクタリでの活躍は、ランプを片手に傷病兵士の看護をする貴婦人の絵画的イメージで瞬く間に英国全土に知れ渡るところとなった。犠牲的な奉仕者として、美しい貴婦人が患者を見回る美徳に富む姿がIllustrated London Newsに掲載された。実際、スクタリの陸軍病院でナイチンゲールは院内を見回り、負傷や病気に苦しむ無学な兵士たちに手紙の代筆をしたり、手紙を読んであげたりしていた。兵士たちからは天使のように慕われたとされている。しかし、この絵には大嘘がひとつある。それはこの絵に描かれている院内の現状である。実際は、病院内に大勢の傷病兵が運び込まれ、彼らは床の上に直接敷かれたマットに寝かされ、肢体の切断手術はその場で行われていた。床には血が飛び散り、汚物が散らばっていた。その惨状たる現場の状況はユールゲン・トールヴァルド著、小川道雄訳『外科医の世紀―近代医学のあけぼの』(1)に書かれている。こうした惨状の中で、ナイチンゲールにとって絶対に許せないことがあった。そのひとつは、下級兵士が人間として扱われていなかったということである。負傷兵は役立たずの厄介者に過ぎず、死んで当然とされてい1日本赤十字九州国際看護大学講師116人道研究ジャーナルVol. 2, 2013