「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013たことである。あとひとつは、負傷から死亡する兵士の数より、病死する兵士の数の方が圧倒的に多かったことである。彼女は看護師としての責任が問われていると感じた。大量の病死者に対する自責の念は、自虐的なまでに自分を追いつめることもあった。ナイチンゲールの看護師としての原点は、イーストウェローやホロウェイの貧しい農民や織工たちの世話をし、支えとなって、安心を与えたことにあった。しかし、クリミア戦争で彼女は看護というものが想像以上に過酷なものであることを思い知らされることになったのである。周辺にいかに彼女が聖女扱いされようとも、死んでいった、アイルランドやイングランドの貧しい農村出身の若いあどけなさの残る兵士たちの姿が彼女の心を苛んだ。彼らは給金をわずかでも残して故郷に送っていたのである。下級兵士は最前線に立たされ、銃撃の恐怖にさらされ、負傷して入院すると麻酔もされずに外科手術をされる。そのうえ、入院費を給金から差し引かれたのである。さらにまた不潔な環境の中で、感染症で死ぬと大きな穴の中にまとめて埋められた。ナイチンゲールは、裕福な生活の中で、若い兵士の無垢な顔や哀れな姿を思い出しては役人や陸軍当局の無責任さを怒った。しかも、誰も責任を取らないばかりか、責任が問われるべき将校たちの中には昇進さえする者がいたのである。1856年9月、聖マーガレット教会の礼拝でナイチンゲールはイーストウェローの貧しい村人に誓った。国のために苦痛を耐えまた死んでいった兵士たちに対して、私たちはもはや何もすることはできません。彼らはもう、私たちの援けを必要としないのです。その魂はそれを与えたもうた神の御許にあるからです。私たち遺された者の務めは、彼らの苦しみを無駄にしないことであり、そのために今から後は、この経験から学びとって、先見の明とすぐれた管理の力を発揮して、このような惨苦を少しでも減らすことです(2)。イーストウェローの誓いはクリミア戦争以後のナイチンゲール自身の新たな生き方を表明するものであったに違いない。しかし、クリミアで思いがけなく受けた災禍はナイチンゲール自身の体の中に居座り続け、厳しい試練となって時折海岸に寄せる大波のように押し寄せてきたのである。その試練は忍耐と、社会や若い看護師に何かを伝えたいという情熱によって克服されていったのであるが、一方では、誰にも理解できない激痛と苦痛が繰り返され、孤独な闘病生活を余儀無くされ続けたのである。20世紀も半ば過ぎてようやく、ナイチンゲールがクリミアで受けた災禍は回帰性の感染症、ブルセラ症ということが判明したが、当初、ナイチンゲールの病名がよく分からなかったことから、様々な憶測が生まれた。その中には仮病説さえもあった。もっともらしい病名を1913年につけたのは伝記作家のエドワード・クック卿(Sir Edward Tyas Cook)であったとされている。その病名は心臓拡張症あるいは神経衰弱症であった(3)。その後、心身症(psychosomatic)と言われたりしたが、1918年にアリス・エヴァンズ医師(Dr. Alice Evans)はマルタ熱と畜牛の流産熱病との間に密接な関係があることを発見し、ブルセラ・メリテンシス(BrucellaMelitensis)と命名した。アリス自身その病に罹り、17年間繰り返される発症に苦しみ続けた。アリスの発見以後医師たちが病名を発表するが、総じて過労性の心身症の域を出るものではなかった。ナイチンゲールが患ったクリミア熱に明確な病名をつけたのはデヴィット・ヤング医師(Dr. David Young)であった。彼は、1995年にナイチンゲールの病は、当時よく知られていた地中海熱あるいはマルタ熱と同じあり、さらにブルセラ症(Brucellosis)に含まれることを発表した。ブルセラ症は、19世紀にクリミア熱の一つとされていた弛張熱(Remittent Fever)と同義であり、その特徴は神経過敏症(Nervous irritability)、発熱性興奮譫妄症(Feverish excitability and delirium)、長期胃炎症(Prolonged gastric irritation)などの症状を引き起こす。全身の痛み、抑うつ症、食欲不振、妄想、息切れ、最もひどい症状は坐骨神経痛、激痛を伴う脊椎炎や脊髄の炎症などが一定の期間をおいて襲ってきては一定の期間苦しめると潮が引くように回復する、それが繰り返されていくのである。恒久的な障害となる場合もあるとされている。ナイチンゲールは激痛を伴う脊髄炎を発症していたようで、英国に戻ったのちにも、何度もベッドから起き上がれなくなり、激痛に襲われ、寝返りもできないことがあったということである(4)。ナイチンゲールがクリミアでこの恐ろしい病にかからなければ、看護学校や聖トマス病院の若い看護師たちと親しく交わり、直接彼女の口から励ましの言葉をかけ、直接指導にあたることができたであろう。1893年(5シカゴ万博の看護国際会議に招かれ、米国の看護師の前でSick-Nursing and Health-Nursingの講演)をし、拍人道研究ジャーナルVol. 2, 2013117