「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013結局独断でクリミアへ渡った。ナイチンゲールは衛生委員会と共にバラクラヴァへ視察に行くことになった。バラクラヴァは衛生状態が悪く、コレラによる死人が出ているという情報があったらしい。セシル・W・ウッダムスミスによると(8)、ナイチンゲールはバラクラヴァ病院が自己の指揮下にあると思っていた。しかし、バラクラヴァにはナイチンゲールと衛生委員会の活動を阻止しようとする保守的な軍の役人や医療従事者が多くいた。彼らはナイチンゲールの反対勢力として結束していた。ナイチンゲールは渾身の力を振り絞って実情視察を強行したのである。(9それに対して、ヒュー・スモールはナイチンゲールのバラクラヴァ行について異なる見解)を書いている。ナイチンゲールは他の看護師、特に彼女自身が最初に選んだ38名以外の看護師に対して不信感を強く抱いており、彼女自身の目の届くところで監視、管理していなければおさまらない性格の持ち主であった。彼女の独善的な専制主義的管理に対して、クリミアの軍医長ジョン・ホール(Dr. Sir John Hall)をはじめとする医療従事者は特に反感を抱いていたと論じている。強引ともいえるナイチンゲールのバラクラヴァ視察は、彼女自身に思わぬ災禍をもたらした。信頼と理解に富む寛大な気持ちで、無理な視察などしなければ、災禍は免れていたかもしれない。彼女は、バラクラヴァで突然激しい疲労感と憔悴感を覚えて、昏睡状態に陥ってしまったのである。サザランド医師の診断でクリミア熱(Crimean Fever)にかかっていることが発覚、2週間生死の境を彷徨してしまった。病のことはヴィクトリア女王の耳に伝わった。ナイチンゲールは女王の特使ラグラン卿の訪問を受けた。主治医サザランド医師の付き添いで、彼女は英国へ直接搬送される予定であった(10)。ところが、ナイチンゲールはスクタリで下船を要求、スクタリに留まってしまった。病気は2、3週間後に回復したが、その時、英国に戻って、完治するまで英国の病院で治療してもらい、静養しておれば、クリミア熱は大きな災いとはならなかったかもしれない。3.帰国後の再起と病克服1855年10月下旬ナイチンゲールは再び病に襲われ、激しい坐骨神経痛(sciatica)で入院。旧友のプレースブリッジ夫人(Selina Bracebridge)に手紙で「クリミア熱、赤痢、リウマチなどこの風土がもたらす病のすべてを経験しましたから、もうこの体はこの風土に完全に順化され、兵士と共にこの戦いに耐え抜く用意ができたと確信しています」(11)と書いた。1856年8月帰国後ナイチンゲールはテムズ川の南側の貧困地区の真中に在るバーモンジー修道院(Bermonsey Coonvert of Mercy)を訪れた。その修道院は1838年に創設されたカトリックの修道院で、修道院長メアリー・ムーア(Revd Mother Mary Moore Clare)はスクタリでナイチンゲールの片腕となって忠実に働いていた。彼女と配下の修道女たちはナイチンゲールが施行した医療統計の資料を英国へ一足先に持ち帰っていた。ナイチンゲールはその資料を受け取って、列車でダービシャーに向かった。最寄りの鉄道の駅を降りるとリーハーストまで歩いたということである。クリミア戦争で地獄を見たナイチンゲールは、その記憶によって、流された兵士の血が生き残った人々の幸せのために彼女に立ち上がるように求めていると思い続けた。6か月間に73%が疾病で死んだという統計上の事実が、英陸軍の健康管理上の制度の欠陥がもたらしたものであることを実証していると確信した。今のままではいけない、という使命感を奮い立たせるが、しかし、動悸、呼吸困難、失神、虚弱、消化不良に悩まされた。1857年8月過労が原因と思われている虚脱発作を起こし、温泉地に保養に出かける。9月高熱を出し、自己が傷病者であることを認める。1857年~1861年は病状が悪化し、死が切迫していることを意識する。1861年12月、新たな症状が彼女を襲い、脊髄に激しい痛みを感じ、半年寝たきりになる。1866年前半年、再び脊髄の痛みは激しさを増し、48時間姿勢を変えることが出来なかった。1867年には一日に一人だけ面会できるようになった。以後10年間ナイチンゲールは発症を繰り返しながら、ほとんどがサウスストリートの一室の寝床の上での仕事になったのであろうが、この間に彼女の成し遂げた仕事はスケールが大きく、しかも歴史に残る重大なものであった。1859年、『病院覚え書』(Notes on Hospitals)と『看護覚え書』(Notes on Nursing)を出版、1859年『思人道研究ジャーナルVol. 2, 2013119