「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013てしまった。原爆による完全な市政機能の麻痺により、毎日死者が発見されているにも関わらず信頼できる死傷者数の統計作成がほぼ不可能になった。さらにどの被害者救済機関も数日間は稼働できる状態ではなかった。負傷者は親戚によって近隣の町村へ運ばれ、家族に看護された。負傷者は毎日のように死に、日ごとに数値は変化するので軍当局と役所から渡された数値は合致しない。広島は重要な海軍の兵器工場地帯であり、当時は軍事基地の中核都市でもあったため相当数の日本兵が駐屯していた。ほとんど軍隊は爆心地近くの広島城居留地に宿営していたため、軍の負傷者は並外れて高かった。数人の目撃者によると爆心地から3キロほど離れた駐屯地にいた軍人は皆、かなりの重傷を負っていて火災から逃れようと北に向かって大通りに押し寄せたと証言している。ほとんどの人は上半身裸で働いていたようであり(この季節は例外なくそのように働く)背中と腰部分に重度のやけどを負ってしまった。ほとんどの人は即死か、または重傷を負い、恐怖に怯えながらも大通りに沿って走った。髪の毛は茶色に変色し、頭は数時間で普通のサイズの2倍以上に膨れ上がり、顔は黒ずみ、唇は腫上がった上に出血し、目は腫れ上がったまぶたのせいでほとんど閉じた状態になっていた。露出していた腰、背中、腕どこも肉がむきだしになっているか大きな水ぶくれができており、救急診療所では痛みをやわらげるためにそれらを切り開いていた。通りのいたるところに相当数の軍人がこのようにして衰弱していた。陸軍の救急病院に収容された大半の人は、開いた傷口をただマーキュロクロムかひまし油で覆う応急処置を施されただけだった。原爆投下から数時間後、負傷者から浸透液の不快な臭気が漂っていた。視察団は、視察日当日の広島とその周辺の負傷者数は約10万人と推定した。18.救援このおぞましい状態、特に負傷者に対する処置に関しては、連合軍最高司令部の援助による広島への緊急医療支援、また状況調査のための医療調査団の即時派遣を勧告した電報(添付資料3)を1945年8月30日に駐日代表部へ急送した。1945年9月9日、ファーレル将軍を団長とする米国原子爆弾災害調査団は、ジュノー医師と広島への医療物資約12トンを輸送する6機の飛行機を伴い到着した。この医療物資は赤十字国際委員会の監督のもと、各医療機関に配布された。(添付資料4)1945年9月14日、駐日代表部の通訳者、冨野氏は上記医療救援の運営管理のために広島に派遣された。しかし不幸なことに、9月17日夜に巨大台風が広島付近を襲ったときに偶然宮島に滞在しており、冨野氏の宿泊所は土石流に流されてしまい、彼自身も重傷を負ってしまった。3日後、その傷のせいで死亡した。広島県の全ての通信手段が遮断されていたため、駐日代表部がその事故について知ったのは丸1週間後だった。その台風のせいで4,000を超える人が、生活の場を失った。20.結論(訳注:原文において19は欠番)空襲に遭った他県のように広島も多大な被害を被っているが、一瞬のうちにして全てを奪い去られた原爆の都市である点では他とは根本的に異なり、それは壊滅的な結果、特に人類の甚大な損失といえる。この広島の大惨事は赤十字国際委員会が新しくまた深刻な問題であると発表することで、あらゆる注目を集め得るだろう。つまり、原爆は毒ガスを含む他の軍事兵器をはるかに超えた威力をもつということである。赤十字国際委員会は原子力取り締まりについての国際的な話し合いに参加すべきであり、破壊的な力を持つ核兵器の使用を禁止するよう働きかけるべきである。1945年10月24日、東京にてF.W.Bilfinger(署名)代表この報告に必要な書類として以下の添付資料と同盟通信から入手した48枚の写真を同封する。人道研究ジャーナルVol. 2, 2013141