「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 144/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013(添付資料1)原爆被害について広島県特別高等警察(特高課)太宰課長による陳述(1945年8月29日)原子爆弾は1945年8月6日8時15分頃、広島上空で爆発した。爆心地は相生橋付近である。この爆心地の位置は建物が受けた被害の様子と方向から決定したものである。また壊れてしまった橋の欄干が明らかに外側に向かってねじれていることからも指摘することができるだろう。私は爆心地から約4マイル(6.4キロ)離れた横川町1丁目の川沿い付近に住んでいる。私は被爆する40分前に東京から到着したばかりであった。妻が玄関で駅からの私の荷物を使い走りから受け取っているとき、私はちょうど朝ごはんを食べていた。その時、ひどく突き刺すような閃光が私の家の玄関を通過し(その光線の色は電気で溶接する際に見られる火花に似ていた)、その1、2秒後に私の家は完全に倒壊してしまった。その結果私たち家族(妻、2人の子供、そして私)は倒壊した家の下敷きになり動けなくなった。閃光の直後に爆風が吹いたため、私の眼鏡は吹き飛ばされてしまい、そのせいで顔に傷を負ってしまった。約5分後、私はどうにか瓦礫化した家の下から這い出し、すぐに家族も救い出した。幸運にも皆、無事であることがわかりほっとした。原爆が爆発した時、私には何も聞こえなかったが、後になって自分の家よりさらに4~5マイル程離れたところに住む数人から、ものすごい爆音を聞いたことを聞かされた。家族を集めるとすぐに、家から数区画離れたところにある平地へ行こうと思い立ったが、完全に煙に包囲されていてそれは不可能に思えた。しかも注意して見てみると私のすぐ周りだけでなく、山や市内も煙幕に覆われていることがわかった。そうこうしているうちに北進する道を見つけ、野菜畑の開けた土地にどうにか到着した。この道中に、血にまみれて苦しみ悶えながら泣き叫んでいる人たちに出くわした。路上には爆風でなぎ倒された配線やケーブルが散乱しており、石やらレンガやら瓦礫も私たちの行く手を阻んだ。私たちが野菜畑に着いたちょうどその時、町の中心部に大火事が発生したことを知った。家族をその場所に残し、大芝の自動車教習所に行って車を借用し、可部交番に向かった。そこから数人の警察官と町内会のメンバーに町の中心部へ通じる道路があるのか調査させた。こうした試みは午後4時頃まで、火災で全ての建物が焼失するまで何度も続いた。私は、可部交番で第一回目の東京にある内務省宛のレポートを送信し、同時に広島市周辺にある11の交番へ通達を出し、負傷し火傷を負った人への迅速な食糧供給と手当てを指示した。その日の午後の遅くに、仮設病院の一つになっている多聞院に抜ける道があり、知事が広島県全体の警察に同院に集合するように通達を出したという情報を得た。数人の警察官を伴い、同日午後8時に到着した。可部から多聞院へ向かう道中は、恐ろしく熱くてきっと火災にも出くわすだろうと思っていたが、そのようなことは起こらなかった。実際は昼までに建物の大半が燃え尽きており、午後4時までには熱さも収束していた。私は強度の近眼である上に被爆時に眼鏡を失ってしまったので、多聞院へ向かう途中の景色がはっきりと見えなかったが、私に同行した警官らが路面電車が線路から道端へ脱線していること、また道の至るところに死骸が散乱し、けがや火傷の負傷者が苦しんでいることを教えてくれた。鉄製の電柱は折れ曲がって倒れており、樹木はバラバラになっていた。私が多聞院に到着した時、知事(後に妻と子供たちを亡くしたことを知った)と数人の役人がすでに来ていた。彼は爆発が起こった当時、偶然にも府中町にいた。そして、その時から系統化された救助活動が県職員により組織されることになった。翌日午前5時、私たちは東交番に向かった。この交番は丈夫な造りで、近隣の数軒の家の住民は被爆前に疎開しており、取り壊されていた。この交番の警官たちが外部からの火の手を防ぐために尽力しており、そのおかげでこの交番の被害は最小限であった。私たちはその後10日間、県警本部をここに置くことにし、寝泊りしながら働いた。142人道研究ジャーナルVol. 2, 2013