「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013機体が収容所の上空に飛来しました。私はこの軍用機を感嘆しながら眺めておりました。驚いたことに、B29は低空で舞い降りてきました。そして、突然、その爆弾倉が開かれるや、大量の物資が投下されてきたのです。パラシュートがつけられていたものは、四方八方に降下してきました。しかし、私の頭を目がけて爆弾のように落下してきた物資もあったのです。平和目的のためとはいえ、この「爆撃」から奇跡的に私は逃れることができました。それにしても実に危ういところでした。靴や衣料品が中身でしたが、その重量たるや少なくとも300kgに達する包みが1つ、私から10m離れた地点に落下し、バラックの屋根を突き破りました。そのバラックでは、撤収の翌日ではあれ、まだ俘虜が起居していたのです。遺憾ながら、そのバラックの俘虜たちは私のような幸運に恵まれていませんでした。食料品やその他の救恤品目を満載した降下物資にパラシュートがつけられてはいなかったばかりに、収容所からの解放を前にしながら、命を奪われた者がいたのです。その日、大森では、物資の落下地点はいくぶん広範囲にわたりました。収容所敷地内は無論ですが、そのすぐ隣接地帯、そして海上にまで落下してしまいました。と申しますのも、収容所が置かれていたのは、東京湾上に浮かび、東京と横浜との間に位置する小島の上だったからです。この島は長さ約100mの橋によって陸と続いていました。物資の投下が終わるや、収容所の外では、空から落下してきた物資にありつきたいとの一心で日本兵や一般市民らが群がっていました。余分となった物資はこれら群衆に任せるのが適当だと考えた私は、横浜に駐屯するアメリカ第8軍司令部をただちに訪れました。そして、私はシャンツェ大佐に次のように提案しました。「撤収後の俘虜たちが収容所に残した救恤品を管理する権限を、赤十字国際委員会駐日代表部に与えて下さらないか。単独であれ、家族とともにであれ、釈放後もなお日本に居留を続ける(外国の)民間人元被抑留者にそれらの物資を分配したいのである」、と提案したのです。私は書面による許可を直ちに第8軍から得ることができました。そこで、主要な収容所に出向いている総ての代表に対して、私は電報を打電しました。食糧、衣料、医薬品はみな一手に集め、我々が横浜に持っている代表部倉庫に送るか、または最寄りの日本赤十字代表者に引き渡すように要請しました。というのは、日赤側代表者もそうした物資を早く分配できないかと待ち望んでいたからでした。その時、約1万名もの人々に救恤品を配給することになろうなどと私は考えてもいませんでした。実際のところ、食糧、衣料(と言っても軍用のものですが)、医薬品が大量にあふれていました。東京の事務所にいたストレーラー女史がきわだった働きをしてくれました。幸いにもアメリカ人の運転手が運転をつとめてくれた日本製トラックに乗った彼女が、道路という道路を走り回ってあらゆる収容所をくまなく訪れ、横浜の倉庫にビタミン剤、つなぎの作業服、缶詰、パラシュートを調達してくれたのです。その活躍振りは誰の目にも止まりました。それだけではありません。ストレーラー女史こそが最初に救恤品配給作業を組織化してくれたおかげで、横浜における私たちの業務が軌道に乗ったのです。その間、私はというと、私たちの忠実なヴァイのおかげにより、東京での配給センターとして不可欠な場所を確保することができました。もっとも、ヴァイの本職は腕のよい料理人だったのですが。たちまちにして何百人もの人々が横浜と東京の配給センターに詰めかけて、これらの救恤物資を求めました。それらの人々とは、無国籍状態の白系ロシア人、イタリア人、フランス人でした。彼らは、戦争の間、日本の官憲により身柄を拘束されていたか、空襲や家屋の火事で、無一文になっていました。そこで、私とストレーラー女史とはGHQに対して次のように提案したのです。すなわち、「元被抑留者や元俘虜であれ、政治犯であれ、連合国側国籍の者であって抑留されてはいなかったにもかかわらず資産を失ったとか、直接であれ間接であれ戦争による被害者であると私どもが判断する総ての人々に対して、GHQの救恤物資を配給してはどうか」、と。GHQが私たちに与えた回答は大幅な裁量権を与えてくれていました。つまり、結果的には、誰に配給すべきかの判断は一切私たちに任せてくれていたのでした。広島からもどる途上で立ち寄った神戸で、私はアメリカ領事ジョンソン氏に会いました。同領事は、中国人俘虜への救援を私に要請しました。ちなみに、これら中国人俘虜がいることについては、日本側からは私たちの方には何ら通知がありませんでした。そういうわけで、(ビルフィンガーが担当していた)広島地区の俘虜たちが、救恤品を満載した5台の貨車を引き揚げ船に乗せて運び去ろうとしいたところを、私はあやういとこ人道研究ジャーナルVol. 2, 2013147