「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 150/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013ろで食い止めることができました。私は、横流しされそうになったこれらの救恤品を神戸にもどし、俘虜を母国へ送還する業務担当代表のブルンナー氏に物資をゆだねることにしました。そして、1ヵ月間だけ代表任期を延長してくれないかと彼に頼み込みました。このような次第で、ブルンナー氏は神戸の配給センターの管理運営を初めから終わりまで担当することになったのです。横浜と東京で仕事を開始した当初、ストレーラー女史と私にとっては難儀を極めておりました。と申しますのも、この特別な業務の他にも、私たちとしては、東京地区における俘虜引揚業務に責任を負っておりましたし、アメリカ軍当局者および主要収容所、東京ならびに横浜で活動中の代表らと連絡を取り合わねばならなかったからです。更には、宿舎、使用人、移動用の自動車といった居住面での細々としたことをも整えなければならなかったことは申すまでもありません。もう少しで忘れてしまうところでしたが、私たちは日本赤十字社当局とも連絡を取り合わねばなりませんでした(3)。それにもかかわらず、約1万人に相当する人々にこれらの救恤品を私たちは配給することに成功しました。私たちはGHQ側から歓迎されたと同時に、「かくも有益な活動をあなた方が継続しないとは残念だ」とのコメントをも頂戴したのです。業務をこれ以上は続けるべきではないのが妥当だと私が判断した理由とは、過日、電報で御連絡した通りです。すなわち、「第1には、当該国において、少数派だけを対象とするならば、何千という難民が何も受け取ることができないという状況では、救恤活動を行うことはできない」、「第2には、我々ICRCの介入が不可欠とは言えないこと」、「第3には、救恤品を十分に管理するために必要な人員を我々には確保できないこと」、以上3つの理由を御連絡しました。このような業務の責任は軽々に取られ得るはずがないと皆さんもお考えでしょう。そういうわけで、私は、意気込んでいたペスタロッチ氏の手綱を締めることとなりました。というのも、ごく最近、氏自らが、「部分的ではあれ、11月15日以降は本来の職業に復帰したい」と私に告げていたからです。たくさんの人々にとり天からの恵みとなりましたが、私どもの大半の時間と人員とを割かざるを得なかった以上の業務に関して、総ての書類と報告とをお送りすることにします。3.広島について原子爆弾投下という事態について、貴本部からの電報では「近隣の市町村から退去するように」と私たちに勧告されていました。東京で私が集めることができた情報は、極めて漠然としたものでした。そこで、広島方面の俘虜引揚業務担当の代表を送らねばならなくなった折に、被爆後の町の状況と人体への影響とを現地で調査してくることを私はビルフィンガー(4)に要請しました(といいますのは、せんだってビルフィンガー本人がこの任務を希望しておりましたから、私は彼にこの任務を託したのです)。9月初めになり、日本の外務省は私のもとに一連の写真を届けてきました。広島の被爆者らを撮影したそれらの写真は、被爆後の被害状況をありありと示しておりました。同じ日にビルフィンガーのもとから届いた電報は、私が案じていた通りのことを伝えていました。9月4日、フィッチ将軍、軍医部長B.P.ウェブスター大佐、防疫医療担当サムス大佐に私は面会しました。これらの人々は総てGHQ附アメリカ軍高級将校でした。そして、「最高司令部は原爆被爆者らに対する救恤活動を可及的すみやかに開始すべきである」と私は要請しました。敢えて申しますが、居合わせたこれらのアメリカ軍高級将校らは私の要請のもつ重みを即座に理解したばかりか、サムス大佐はこの要請をマッカーサー元帥に取り次ぐことを確約してくれました。その3日後、GHQが私に連絡してきたところによると、「赤十字国際委員会に対して15トン(5)の医薬品と衛生用品とを供与し、これらの救恤品を広島で配給し管理することをも任せる」、ということでした。更に、翌日飛行機で現地入りするアメリカ側調査委員会に私自身が同行してはどうかとも勧められました。その委員会は、原子爆弾という新兵器の威力を確認し科学的な調査の実施を目的としていました。9月8日、私は、この委員会一行とともに、東京から1時間半の地点にある厚木飛行場に赴きました。6機の飛行機が待機していました。各機とも2~3tの救恤品を搭載して(6いました。委員会のメンバー、私、そして2名の日本人医師)が搭乗しました。よい日和にめぐまれて、空の旅は快適でした。離陸してから1時間もすると、富士山の東側の山腹に沿って飛行していました。あの堂々1編集者注:当初〔12トン」とタイプし、「2」を「5」と手描きで修正している。148人道研究ジャーナルVol. 2, 2013