「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013とした噴火口がすぐ近くにありました。次いで、名古屋、大阪、神戸といった大都市の上空を通過しました。これまでの爆撃による連日の火災を辛くも逃れた数少ない市町村があちこちに点在する中で、空襲の爪痕を残しているこれらの大都市は、さながら途方もなく大きな錆の染みであるように私には思えました。こうした様子は、たしかに痛ましいものでしたが、およそ想像を絶した広島の廃墟の光景とは比べようもありませんでした。高空から観察したところ、かつては人口が40万に達し、市内には7つの川が流れており、太田川のデルタ上に築かれていたこの町は、並外れた力によって吹き飛ばされていました。町の中心部は、巨大な白い染みでしかありませんでした。その周囲は、被爆後に起こった火災の跡なのでしょうか、褐色化した地帯がえんえんと続いていました。遠方に目を向けると、港の付近に、丘に遮られていたためか、無傷のまま残っている建物が幾つか見えました。広島市の上空を旋回した後、6機の飛行機はすぐに着陸し、10分後に私たちが降り立ったところは、日本海軍の航空隊基地である岩国飛行場でした。医薬品が飛行機から降ろされました。調査委員会の責任者であるファレル准将から私は医薬品の処理を任されました。リストはありませんでしたが、医薬品の総重量は15トンにも達していました。これらの医薬品を日本海軍の一士官に託して、その日の夕方、私は(7(最寄りの)日本陸軍司令部)を訪れました。そして、ここでは、翌日の広島入りの準備を整えてくれました。日曜日にあたる翌9月9日、私たちは破壊しつくされた町に入りました。そして多方面からの証言を聴いて回りました。(委員会一行とは別に)単独で私はなおもこれより4日間現地に留まりました。まず、広島の現地当局者らとともに、医薬品のリストを整え、安全な場所に医薬品応急貯蔵所を設営しました。そして、市内の病院を回って被爆者を診察しました。さらに、日本人医師らと、被爆者らに発症している症状から彼らが得ることのできた所見について、話し合いました。私はこの驚くべき症状を「ヒロシマ症候群」と呼ぶことにします。私の報告書はまだ書き終わってはおりませんが、完成しましたならすぐにそれを本部にお届けするつもりです。ビルフィンガーは丸一日を広島で過ごして報告書を書きました。しかし、既にジャーナリストらが何度も報道しているほどには多くの情報を彼の報告書は伝えてはおりません。私自身が広島を発ってから、私ども(8の通訳をつとめてくれていた冨野氏)を広島に派遣して、引き続き医薬品配給の監督を委ねました。ところが、残念なことに、強い台風が襲来した折の広島に起こった天災のために、私たちのこの協力者は亡くなりました。不運がまたしてもこの憐れな広島の町にふりかかったと申せましょう。日本の慣習により、私たちは富野氏の遺族に弔慰金を支払わなければなりませんでした。未亡人に6,000円を届けました。この件について私は非常に遺憾に思っております。というのは、(弔慰金支出を目的とした)経費増額を求めて当方から何度か打電した電報に対して、ジュネーブからの回答が著しく遅れたからです。ひょっとすると、これらの電報は検閲により差し止められたのでしょうか?本部からの回答は本日11月5日に到着しました(9)。本部宛に訓電を打電してから実に5週間後となります。最後になりますが、広島市内42の病院に行った医薬品配給の完全なリストを、私は連合国軍最高司令部に提出することができました。本件に関しての協力にアメリカ軍当局は私に謝意を表明してくれました。4.駐日代表部について在東京の(赤十字国際委員会)駐日代表部とは難なく接触することができました。しかしながら、私どもの着任と日本の降伏とが時期的に重なっていたため、ほぼ2年間にわたって責任者を欠いてきた代表部を掌握することが、私には全く阻まれていたのです。8月9 ? 11日の東京滞在中に私はスイスから携えてきた信任状を日本外務省と日本赤十字本社に提出しました。次いで、軽井沢に赴き、1944年5月からここに疎開している(赤十字国際委員会駐日代表部)事務所を視察しました。当事務所は1944年11月以来「万平ホテル」の一室に置かれていました。私には(代表部)代表や(現地)スタッフと接触するだけの時間がほとんどありませんでしたが、たちまちにして私が驚いたのは、同じ事務所で代表らと共に仕事をしてくれている外国人協力者らの人数でした。ペスタロッチ氏が語ったことによると、スイス人の人員を確保することは不可能であったから、ユダヤ人ないしは無国籍者のような外国人ではあっても、協力者として人員を見つけることができて喜んでいる、とのことでした。8月17日、東京都内情勢についてビルフィンガー氏が送ってきた報告によると「一般市民はパニック状態人道研究ジャーナルVol. 2, 2013149