「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 158/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013犯罪の臭いがするとか詐欺罪すれすれのところであるようには私は考えておりません)となっていたが、その後、≪mais pour le moment je ne vois pas de caractere criminel mais plutot l’escroquerie≫(しかしながら、当座のところ、犯罪の臭いはしませんが、むしろ、もう少しで詐欺罪となるのではないかと私は考えております)と訂正され、更に本文のように改められている。(15)ジャン・ピクテ(Jean Pictet, 1914-2002)氏は、当時の赤十字国際委員会理事会の一員である。1949年のジュネーブ条約の改正等に関わっている。Cf., Yves SANDOZ,≪ANNIVERSAIRE ? Il a consacre sa vie au CICR Jean Picteta 80 ans≫, dans l’editon du 2 septembre 1994 du Journal de Geneve et Gazette de Lausanne. Jakob KELLENBERGER,≪Hommages a Jean Pictet, pere des Conventions de Geneve de 1949≫, dans l’edition des 6-7 avril 2002 (No1235) de≪Le Temps≫, p.21.なお、ピクテ家はジュネーブに古くからある名家であり、各方面への人材を輩出している。(16)この個所はジュノー博士が事後に肉筆で書き込んだものである。(17)マタエウス・ヴィッシャー博士(le Dr.Matthaeus Vischer)は当時、ボルネオ駐在の赤十字国際委員会代表であった。夫人と共に日本軍憲兵隊からスパイ容疑で逮捕、取り調べられ、1943年12月11日、現地軍法会議で死刑判決を受けた。そして同年12月20日、二人は処刑された(Cf., DURAND, op.cit., p.454. ;≪Le temps de la Mob enSuisse romande 1939-1945 -Texte d’Andre Chamot≫, editions Payot Lausanne, 1979, p.173. ;Marcel JUNOD,≪Le Troisiemecombattant ? De l’yperite en Abyssinie a la Bombe Atomique d’Hiroshima≫, librarie Payot, Lausanne, 1947, pp.254-257.マルセル・ジュノー著丸山幹正訳『ドクター・ジュノーの戦いエチオピアの毒ガスからヒロシマの原爆まで』、勁草書房、1981年、pp.276-279)。(18)ロベール・ツィンデル(Robert Zindel)氏は当時香港駐在の赤十字国際委員会代表である(Cf., DURAND, op.cit., p.458.枡居著前掲書、p.31.)。(19)暫定的に「民間救援局」と訳出しておく。(20)この「その他、そして返信事項」のうち、a)ビルフィンガーの件について、b)(代表部の)業務資金に関する電報の送信について、c)海外からの日本人の引揚について、以上3項目は、ジュノー第5報告のオリジナルをタイプで転写浄書し直して本部理事会で回覧された写しの中から削除されている。(21)ここにジュノー博士による書き込みがあるのだが、翻訳者には判読できなかった。156人道研究ジャーナルVol. 2, 2013