「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013■キガリのICRC病院:非道の海に浮かぶ人道の島病院、医療従事者、患者にとっての聖域が尊重された驚くべき例がある。、1994年の虐殺の際、ルワンダの首都キガリでは、少数派のツチ人とその支援者と見なされる者への組織的な殺戮が3ヶ月間執拗に行われていたが、ICRCと国境なき医師団(MSF)の一団は、赤十字の旗によってのみ保護されている病棟で1万人の生命を救った。一団は負傷者を収容するために命がけで通りに出て行った。彼らが持っていたものは、標章と勇気、そして救急車の見えないところで負傷者が殺されることを防ぐための論拠の強さだった。病院は何度も脅迫を受け、何回もロケット弾によって損害を被ったが、より多くの犠牲者を欲して町を探し回る者たちに屈して病院内に入れることはなかった。むしろ、何人かに殺人行為を止めさせるきっかけを作った:負けることが分かって町を去る前、民兵数人が3ヶ月間拘束していたツチ人看護師を解放するために病院に連れてきた。「彼女はツチ人だが、我々は殺すのを止めた。」民兵はICRCのトップに伝えた。「看護師としての彼女は、今死ぬより、この病院にいた方が役立つだろう。」傷病者を殺害した最も悲惨な事例の一つは、1991年にクロアチアのヴコバルという都市で起こった。ICRCが病院の地位の中立性について協定を結んだその日に、300人の患者とその家族がバスに強制的に乗車させられた:その後200人の死体が埋められているのが発見され、51人はいまだ行方不明である。救急車や医療施設における患者の殺害は、シエラレオネ、コロンビア、レバノン、コンゴ民主共和国、パレスチナ占領地、メキシコのギャング関連の暴力でも発生している。またリビアでも行われたと言われている。2000年9月と10月にはコロンビアで、最初は民兵に、その次に反乱軍兵士によって、複数の患者がICRCの救急車の中で報復の名目で殺された。これにより、ICRCは救急車と患者が守られる保証が得られるまで、患者の救出と移送を停止することになった。ここまでひどくなくとも、傷病者の医療への迅速なアクセスに対する妨害はよく起こる。アクセスは意図的に妨害されることもあるが、最も多いケースは、道路封鎖や治安上の理由で設けられた検問所により、遅れが生じることである。治安上の懸念がどれほど妥当であっても、車両が検査され乗客が質問され、検問所で長時間留め置かれることは生命を危険にさらす。また検問の列の迂回も危険である:イラクやアフガニスタンでは車両が検問を避けようとして撃たれた話に事欠かない。爆発物を一掃する作業や、治安上の事件の後で道路は時に何時間も閉鎖されるが、それが悲惨な結果をもたらす。2010年2月3日、アフガニスタンのクンドゥズ地方Chahar Dara地区の爆発事件で負傷した少女は、病院に到着した直後に死んだ。軍が道路を封鎖したために、彼女は1時間ほどかけて徒歩で運ばれてきたのだった。「彼らは駐車場を通って入ってきて、銃口を我々に向けて床に伏せるように命じた。そして担架に横たわっていた患者を銃殺し、何事もなかったかのように立ち去った。」赤十字の敷地内における患者殺害の様子を語る赤十字ボランティア時に、軍や法執行機関は、尋問のために患者を逮捕または拘束することを求めるが、この行為に関しては完全に合法な要求である。拘束する当局は患者の治療の継続を保証する義務を負うものの、収容施設で適切な医療サービスが提供できない状況ではこうした義務の遂行自体が困難となる。アフガニスタンやパキスタンでは、患者には尋問よりも治療を優先させるようにとのICRCの要請に対して地方の当局が理解を示し、負傷者が尋問される前に医師による診察を認めた。しかし戦闘下にある他の多くの地域はたくさんの課題を抱えている:コンゴ民主共和国のキヴ南部で2010年3月、MSFの患者4人が、医師が「患者の状態からして困難である」人道研究ジャーナルVol. 2, 201319