「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 20131945年8月6日―広島被爆直後の赤十字救護看護婦の救護活動吉川1龍子はじめに被爆直後の広島市第二次世界大戦(太平洋戦争)中の1945年8月6日午前8時15分、世界最初の原子爆弾が広島市に投下された。その日の早朝にテニアン島を飛び立ったアメリカ軍の原爆搭載機B29エノラ・ゲイは、広島市の中央部にあるT字型の相生橋をめざして飛来した。この時に投下されたのはウラン爆弾で、相生橋の南東にある島病院の上空600mで強い閃光を放って炸裂した。その瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、超高圧の爆風が市内を襲った。屋外にいて強烈な熱線により焼かれた人々は、重度の大火傷を負い、体内の組織や臓器にまで障害を受けた。火傷を負った人々の皮膚ははがれて垂れ下がり、まるでボロ布をさげているようになった。爆風により吹き飛ばされたり、瞬時に倒壊した家屋の下敷きになった人も多かった。当時の日本家屋は木造が普通であったから、一部のコンクリート建築を除いて、市内が一瞬にして廃墟となった。当時、日本赤十字社広島支部2の社屋は、原爆の標的となった相生橋のすぐそばにあり、爆心地近くの広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)に隣接していたため、わずかに外郭を残すだけとなり、職員に犠牲者を出した。爆心地から1.5km~1.6kmの距離にあった広島赤十字病院も、鉄筋コンクリート3階建ての外郭は残ったが、強い爆風により窓枠はゆがみ、窓ガラスは飛び散り、院内の備品・物品は破壊され、入院患者と病院勤務者に死傷者が出た。世界で最初の被爆都市となった広島市は、同時に世界最初の被爆者救護が実施された土地でもある。当初はまだ原子爆弾の投下とは知らないで、突然の閃光と爆風に襲われた人々はパニック状態となった。一瞬にして周囲の建物が倒壊し、あちこちに傷ついた即死者が倒れ、大火傷をした人の皮膚は垂れ下がり異様な姿をしているのを見て、不安に襲われた。この大きな衝撃の中で、自身も傷つきながらも、直ちに被災者の救護を開始した救護看護婦たちがいた。瓦礫の原の中に病院の外郭が残った広島赤十字病院には、白地に大きな赤十字マークを示した布が掲げられ、負傷者たちが次々と救いを求めて集まってきたのである。この赤十字旗は看護婦たちの手製であったという。市内の陸軍病院に派遣されていた赤十字救護看護婦の中にも犠牲者が出たが、傷つきながらも生命を得た人たちは、市内に仮設置された救護所で、寝食を忘れて救護活動を続けていった。しかし、被爆者救護に従事した看護婦の手記はあまりなく、その状況は知られなかった。余りにも大きな惨状の中で、看護婦たちの生命もほとんど奪われたと考えられていた。だが、戦後30年以上を過ぎて、戦時中に日本赤十字社兵庫支部第106班の救護員であった人たちが『きのこ雲日赤従軍看護婦の手記』(1984年刊行)(以下『きのこ雲』とする)を共同執筆し、救護看護婦たちの被爆状況と被爆者救護の体験を世に明らかにした。原子爆弾の炸裂後にできた原子雲を、当時の人たちは「きのこ雲」と呼んでいたのである。同じころ刊行された『鎮魂の譜日本赤十字社広島県支部戦時救護班史』(1981年刊行)の中にも、被爆者救護についての執筆者がいるが、この刊行物は非売品のため、限られた人の目にふれただけであった。その後の広島県支部関係の刊行物についても同様である。戦後65年以上を過ぎて、戦時中を知る人が減少していく中で、被爆当時の広島における救護看護婦の活動を、発表された手記を通じて明らかにし、後世に伝えたいと考える。元日本赤十字看護大学図書館日本赤十字社支部名と看護職の名称は、当時のままとした。12人道研究ジャーナルVol. 2, 201353