「人道研究ジャーナル」Vol.2

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The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013護婦総数57人)を三国へ派遣した。1年半余の海外勤務中、日本の女性救護員の活動は注目を集め、その国の看護婦との交流も深まった。また第一次世界大戦の末期にはじまるシベリア出兵(1918~1922年)の際にも、東部シベリアへ救護看護婦136人が派遣され、酷寒の地での勤務が続き、2人が殉職した。3日中戦争・太平洋戦争と女性救護員昭和期にはいると、満州事変(1931年)・上海事変(1932年)が起こり、臨時救護班に女性救護員が加わった。1937(昭和12)年7月7日にはついに日中戦争が勃発し、中国各地に戦線が拡大していくに伴い、戦傷病者が増加していった。開戦後の7月28日に陸軍大臣から病院船要員派遣の要請があったのを皮切りに、中国大陸に設置の陸海軍病院へ次々と救護員が派遣された。また内地の軍病院への派遣も多くなり、さらに各地の日本赤十字社の本部・支部病院も軍病院の指定を受けて、広島陸軍病院赤十字病院というように名称を変更した。日中戦争は終結しないままに、1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争に突入した。戦場は東南アジアに拡大し、ビルマ、フィリピンや南方の島々にまで救護班が派遣された。日中戦争の開戦から太平洋戦争の終結(1945年8月15日)までに内地と外地の軍病院(軍関係の施設を含む)及び病院船に派遣された救護班の総数は960班(全国支部と台湾・朝鮮・関東州の各部),救護員総数は延べ33,156人、そのうち救護看護婦長は1,888人、救護看護婦は29,562人であったといわれる(8)。救護班の編成は、医員・書記・看護婦長・看護婦・使丁からなり、24人前後が通常であったが、戦争末期には21人が通常となり、看護婦長が書記を兼ねた班もあった。物量の少ない日本軍はまもなく敗退の運命となり、外地の救護班は患者と共に山中などで避難生活を続けて、人間として最低限の生き方を強いられるまでになった。爆撃を受けたり、マラリアなどの伝染病に罹患して殉職者が急増した。内地の軍病院に派遣された人たちも、空襲の激化に伴い生命を守ることが危うくなった。空襲の際に火焔がひどくなり、防空壕に避難したものの、壕内で救護班員の大半が死亡した班もある。日中戦争と太平洋戦争中の女性救護員の殉職者は1,120人にのぼった。Ⅱ戦時救護班と広島被爆1広島への救護班派遣の歴史日本赤十字社の戦時救護事業と広島との関係は、19世紀末の日清戦争(1894~95年)の時から始まった。広島市は古くから軍都と呼ばれ、広島城内を中心として軍事施設が設置されていた。日清戦争開戦後は、宇品港を含めて兵站基地となり、兵士の集結と派遣が行われた。前述のように日本赤十字社は、開戦直後から広島陸軍予備病院で看護婦による戦傷病者の看護を開始し、初の女性救護員による戦時救護活動が評価された。ついで、北清事変(1900年)では、大陸から患者輸送船(病院船)が宇品港に入港し、広島陸軍予備病院での看護婦による救護が再び実施された。さらに日露戦争(1904~05年)では広島予備病院へ救護班が国内で最多数の18班も派遣され(うち3班は男性看護人組織)、2年間に扱った患者数は5万人余に達した。アメ(9リカ人医師マギー夫人)と看護婦9人の一行が来日し、日本赤十字社の看護婦と共に戦時救護に従事したのも広島予備病院であった。この機会に日米看護婦の交流も行われた。日露戦争から33年後に日中戦争(1937年~)が勃発し、太平洋戦争へと戦局が拡大すると、広島における戦時救護事業も大規模なものとなっていった。開戦(7月7日)後の9月22日に陸軍大臣から広島陸軍病院への救護班4班の派遣の要請があったのをはじめとして、終戦までに次のような各支部の救護班が広島へ派遣された。1937年9月兵庫支部第106班広島支部第112班岡山支部第132班山口支部第133班人道研究ジャーナルVol. 2, 201355