「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 58/276
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「人道研究ジャーナル」Vol.2
The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 20131937年12月長崎支部第107班山口支部第158班本部臨時第8班1944年10月広島支部第714班山口支部第715班徳島支部第716班愛媛支部第717班1945年7月山口支部第862班岡山支部第863班他の派遣先から移動広島支部第71班本部第303班(山口・佐賀編成)なお広島陸軍病院は、1945年(昭和20)年5月に第一と第二に分かれ、それぞれに分院をもった。空襲に備えて軍患者の疎開を進行中で、それに伴い救護班も他の地へ移動したため、原爆投下時に上記の各班がすべて広島にいたわけではない。2広島被爆による殉職救護看護婦と救護看護婦生徒広島市への原子爆弾投下は、人々がその日の仕事を始めた時刻であった。救護班員も宿舎から出勤して勤務についた時であり、暑い夏の一日の始まりが、一瞬にして悲劇の幕開けとなった。爆心地から450mの広島第一陸軍病院本院は、瞬時にして壊滅し、医療従事者と軍患者の多数が生命を奪われた。太田川沿いにあった第二陸軍病院(爆心地から1km)も全壊、多数の犠牲者が出た。爆心地から2km離れた第二陸軍病院三滝分院も倒壊したが、犠牲者は少なかった。第一・第二陸軍病院で勤務中の救護看護婦の中からも殉職者が出た。地元の広島支部では、第71班が15人、第112班が3人の計18人の殉職者を出した。さらに、ビルマ派遣中の第489班の班員で、現地で発病し広島陸軍病院で加療中の一人も殉職した。愛媛支部の第717班は7人が原爆死、9人が被爆受傷後に死亡し、計16人の殉職者を出した。班員21人のうち5人も受傷し、「愛媛支部派遣の救護班の中でも最も悲惨な運命をたどった救護班であった」と同支部の『百年史』(10)に記録されている。山口支部の第133班は10人、第862班は1人の犠牲者を出した。さらに徳島支部第716班も1人が殉職した。広島第二陸軍病院の跡地(基町)付近の太田川堤防の一郭に「広島陸軍病院原爆慰霊碑」が建てられ、かたわらの墓碑銘に両病院関係の犠牲者の氏名が刻まれている。その中には赤十字救護看護婦と陸軍看護婦の犠牲者が多くみられ、戦争と原爆の悲惨さを後世に伝えている。広島陸軍病院赤十字病院は前述のように外郭は残ったものの、強烈な爆風により、内部は破壊され軍患者の他に医員5人、看護婦3人、薬剤員3人、その他(書記・交換手・運転手・病理試験助手・嘱託・小使・汽缶手・工手・火手・炊夫・洗濯婦・雑仕婦)18人の計29人が犠牲となった。さらに、病院内で勤務実習中であったり、併設の寄宿舎にいた救護看護婦生徒が22人も犠牲となった。当時の在学生は、408人であったが、そのうち甲種2年生4人、1年生13人、乙種2年生5人が赤十字看護婦への夢を絶たれた(甲種は高等女学校卒業者、乙種は高等小学校卒業者)。こうして、赤十字病院内では51人が生命を失い、職員と生徒の負傷者は250人以上にのぼった。この時に被爆して重傷を負った生徒の一人は、その12年後に前途を悲観して自ら命を絶つという痛ましい出来事もあった。また相生橋のそばにあった広島支部の社屋は、各救護班の編成式が行われ、記念写真を写した場所であったが、爆心地の至近距離であったため、外郭だけとなり、19人の職員が犠牲となった。現在の広島赤十字・原爆病院の前庭に1995(平成7)年に建立の追悼碑「平和への祈り」には、被爆により殉職した広島支部及び広島赤十字病院の職員・看護婦生徒とともに、当時の広島支部第71班・第112班・第489班、愛媛支部第717班、山口支部第133班・第862班、徳島支部第716班の殉職者、計117人の氏名が刻まれている(11)。56人道研究ジャーナルVol. 2, 2013