「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013Ⅲ手記に見る被爆者救護の実態1広島市内における救護活動広島城の南、西練兵場に隣接した広島第一陸軍病院と、城の西方の太田川沿いにあった第二陸軍病院は、いずれも建物が全壊し、門柱だけが残ったことが写真からも判明する。日本赤十字社が派遣した救護看護婦と陸軍が採用した陸軍看護婦の多くが被爆し、犠牲となった。しかし、その中でも生命が助かった看護婦もいた。広島支部第112班の救護看護婦長は、班員たちが東城町の分院へ移ったのちも第二陸軍病院(爆心地から1km)にいて被爆した。「トイレに入った私は青白い閃光を小さな窓部にみた瞬間、頭上にガラガラとくずれ落ちてくる物体に[やられた]と思った時、どうしてその場を抜け出したのか、とにかく後になって現場を見た時、殆ど無傷で出られた自分が不思議でならなかった。自分の病棟に直撃をくらったと思った私は、咄嗟に本部に連絡と、本館の方へ目を転じた時、そこには叩き潰された本館の姿も何も無い惨害だけであった。(中略)被爆后の一端を記せば、本院堤防の土手にしかばね軍民一諸の患者が豚のような姿で横たえ、水を求め、屍の冷たさを求めて枕にし、その屍をそっと毎朝船舶の兵隊が処理班として来て引き抜いていく、(中略)与える容器も水も無い、どこからともなく寄せ集めた食器、そして細いゴム管、川の水を汲み、ゴム管を二〇糎余りに切り、次々とその管を廻して口につけていった。あの悪夢のような数日、夜具も無い、血に染まった着のみ着のまま土に臥せ露営したあの野戦さながらの勤務は忘れられない。」(「第百十二救護班思い出の記」『鎮魂の譜』)(12)この救護看護婦長は被爆後に病院の軍医と出会い、生き残りの人たちと共に太田川の堤防に仮設の救護所をつくり、「堤防勤務」を続けた。以前に漢口(中国)の病院で戦時勤務の経験があったが、広島で被爆して、戦場と同様の悲惨な体験をしたのである。爆心地から2km余り離れた広島第二陸軍病院三滝分院(横川駅の北)も倒壊し、勤務中の第714班の班員も、軍患者を避難所に運ぶ途中、被爆した市民の惨状を見た。「八時過ぎ、いつもの様に五七号病棟事務室に於て、当事者より申送りをうけていました時、突然右後方より光と音と風圧がやってきて、物は飛ぶ、人は倒れるの大騒ぎ、何が起きたのかさっぱり分かりませんでした。直ちに軍医に伺って患者の避難を始めました。(中略)病院と避難所を往復する毎に市民の避難者が、北へ北へと行列して急いでいました。中には眼球の飛び出ている人、下肢の皮膚が一枚続きではがれている人、何という惨状でしょうか。(中略)落ち着いた所で気付いてみれば、右肩より背中にかけて緑衣(白衣を保護色として染めてあった)は焼けさかれ、出血もしていましたが、手当てする間もなく動き廻り、二、三日後にやっと消毒した次第です。(中略)処置して廻っている中に、危篤の人もあり、腕や足の傷にはうじが一ぱいわいてる人もいて、戦争の悲惨さをいやというほどみて参りました。」(「広島陸軍病院三滝分院原爆投下前後の思い出」『鎮魂の譜』)冒頭にあげた『きのこ雲』を著した兵庫支部第106班の人たちも三滝分院で被爆した。同班の救護看護婦長は書記を兼任し、本社へ提出の8月の業務報告書に被爆の記録を残している。「八月六日朝ノ空爆ニ依リ宿舎ハ全焼病院ハ倒壊ニ依リ原子爆弾ニ依ル火傷及爆風ニ依リ硝子破片創等患者ノ一部班員の4/3ハ負傷ス」「(班員は)爆風ニ依リ硝子ノ破片創ヲ受ケタル者一三名火傷セル者三名アリタルモ末日迄ニ略治癒シ入院セシメタル者ナシ」(別紙)「原子爆弾ノ恐シサハ其ノ当時ニ止マラズ昨今ニ到リマシテ負傷を免レタル者ガ次々ト臥床シ高熱ト紫斑ト歯齦(しぎん)及鼻血等ニ依リ死ノ転帰ヲ取リツツアリマス誠ニ残酷ナル殺人爆弾デ御座居マス次々ト健人道研究ジャーナルVol. 2, 201357