「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013康相ナ人ガ倒レテユキマス為私共迄心寒サヲ覚エマス」(9月1日記)同班の宿舎は相生橋の近くにあったため全壊し、勤務中の女性従業員が犠牲となった。業務報告書は、被爆後しばらくしてから発生した原爆症の怖さをも訴えている。『きのこ雲』(13)の中には、旧班員たちの被爆と救護の体験が綴られ、戦後30年余を経ても当時の記憶は鮮明に残っている。「看護婦たちは鼻柱や下顎に裂創を受けたり、下腿に擦過症や切創、打撲傷を受けたりしていたが、その手当てを放置したまま、患者の救出作業にあたった。(中略)三滝分院の門外近くを流れる川沿いの竹藪に、竹を支柱にした急造ベッドを作り、市民のための救護所を開設、重傷の火傷者を収容した。火傷患者は痛ましかった。背部一面の火傷、その特有の膿の臭いに、追っても追っても蠅が来て、そこに蛆が涌いて膿を吸い、蠢いている。私たちはその蛆を割箸で取り除くほか、十分な衛生材料もなく、水もなく、ただ土堤上の民家の井戸水で、患者の高熱を和らげる程度であった。」(「阿鼻地獄の広島」)うごめ「次々と市中から逃れてくる人たちは、男女の区別さえつかないほど、全身火傷で一糸もまとわず、頭の毛や眉はチリヂリに焦げており、眼も一本の線となり、口も開けられないほど腫れあがっている。(中略)何をどうしてよいのか解らないが、ただ無我夢中で患者を収容し、治療に当った。」(「怪物のような雲」)「(被爆後)茫然としていた私を我に返らせたのは、そこここからの救いを求める悲痛な声であった。看護婦も全員が負傷し、白衣を血で染めながら、倒壊した病舎の下敷きとなっている傷病兵を救い出すのに懸命だった。やがて大火焔は雨を呼び、雷を伴う豪雨となった。傷つき半死半生の虚脱状態になった人々の頭上に、どす黒い雨が容赦なく降りそそいだ。……全身が焼けただれ、皮膚が襤褸(ぼろ)のように垂れ下がった瀕死の重症者たちが、手当を求めて潰れた病院を目指して来た。」(「どす黒い雨」)「八月八日、本院の救護所への応援命令が出て、三人で行ったが、本院は焼けて跡形もなく、生存者も少なく、築山の所で夜を明かしての救護であった。火傷者たちは、浣腸用のイリゲーターに入れた生理的食塩水で、乾燥しないよう皮膚を湿らせた。イリゲーターは水分補給にも役立った。(「垂れ下がった皮膚」)(以上『きのこ雲』)2広島赤十字病院における救護活動市内千田町にあった広島赤十字病院は軍患者だけを収容していたが、外来患者は一般人も受け入れていた。看護婦は救護班要員として次々に各地へ派遣されたので、被爆当時は34人が在職しただけであり、その人手不足を補ったのが、病院内で看護教育を受けていた看護婦生徒であった。被爆により看護婦3人と看護婦生徒22人が犠牲となったが、負傷しても生命が助かった人たちは、直ちに救護活動を開始した。「(被爆後)落下物を押し分けて、やっとの思いで病室に戻ったとき、そこはまさに修羅場のような光景でした。ベッドに身体や首を挟まれ、大きなガラスの破片が顔や腹に刺さり、血に染まって、まるでこれが戦場ではないかと思うほどの凄さでした。(中略)一時間もしない内に市内で被爆した人たちが押し寄せました。無言のまま、衣服は焼け焦げ、腕の皮はだらりと垂れ下がっている。男か女かも識別できないくらい、顔中が焼け、髪の毛も縮れ、目も鼻も大きく膨れ上がった人たちが何百何千と長い行列を作った。[早く治療をして、何とかして]と、どんなにか切実な気持ちだったのでしょう。止血剤、強心剤、化膿止めと薬のある限り注射を打ってあげるしか処置の方法はありませんでした。」(「生き残った一人として」『いのちの塔』)(14)また外科病棟担当の婦長心得であった人も、次のような手記を残している。当初は、原子爆弾とは誰も知ら58人道研究ジャーナルVol. 2, 2013