「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013ず、患者の治療も火傷の応急手当てや皮膚にささったガラス片の除去に過ぎなかった。「やっとの思いで貴重品として扱っていた油(注オリーブ油)を入手、大きく裂いた脱脂綿にどっぷり油を付け、両手で砂や硝子の入っているのも構わず、顔、背、手、足と手当たり次第塗っては、次へ次へと塗りつける。清潔不清潔もなく、薬局から追加された落花生油も焼け石に水である。」(「原爆の広島陸軍病院赤十字病院に勤務して」『鎮魂の譜』)当時、看護婦生徒で内科外来で勤務実習中であった人も、病院内の様子を記している。「(被爆後)気がついた時には私は数メートル離れた廊下らしい所に倒れていました。……窓という窓のガラスは吹き飛び、鉄の窓枠は飴の棒のようにひんまがり、爆撃のすざましさを物語っていました。……私は常に二個の非常袋を用意していました。それを身につけズック靴をはいたとたん、[私は日赤の看護婦の卵だ、日赤の看護婦だ]と身のひきしまるような戦慄感が全身をはしり、[やるぞ、やらなくては]との気持ちで飛び出しました。……ガラス片で傷ついた足の痛みも忘れ、負傷者を移動させたり、用便のため肩を貸したり、抱えたり、また人の頭大の火の粉を打ち払ったり、一睡もしないで救護活動をしました。……誰一人不平不満も口にしませんでした。黙々と当然の使命だと一生懸命だったのです。」(「閃光の中に友は逝ったー広島のあの日」『ほづつのあとに殉職従軍看護婦追悼記』)(15)病院の敷地内の看護婦生徒寄宿舎は木造のために一瞬にして全壊し、さらに近辺の火災をうけて延焼した。全壊の際に在寮中の多くの看護婦生徒が建築材の下敷きとなったため、生徒指導看護婦長の谷口(のち絹谷)オシエは、病院職員や軽傷の軍患者の協力を得て、生徒の救出に尽力した。彼女は自身も被爆しながら、多くの生徒の人命を救い、さらに病院に集まってくる被爆者の救護に不眠不休の活動をした。この献身的な功績により、1959(昭和34)年にフローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。谷口婦長の体験記は諸書にみられるが、次はその一例である。「寄宿舎の婦長室で閃光を見た瞬間、倒壊家屋の下敷きとなる。……その時真っ暗い中を走り回っている生徒の姿、倒れた家屋中から救いを求める声、苦痛を訴える悲鳴で我に帰り直ちに本館に走り応援を乞う。(中略)掘り出した生徒の中には、仮死状態の者もいる、応急手当を施すと死の転帰を取る等、重傷者、歩行困難の者は担架で本館の玄関の広場へ、歩ける者を連れて午後四時か五時に出た。前庭に押しかけて来ている被爆者で一杯、次から次へ担架で運ばれているも、次々に死亡、全く地獄絵図さながらの状態であった。」(「被爆の惨状と救護活動の状況」『鎮魂の譜』)倒壊した寄宿舎の下から助け出された当時の看護婦生徒の一人は、当日のことを次のように記している。「助け出された私達は、病院の中庭に集合し、体の動く者は自分の負傷はそのまま、玄関前などに並ぶ多数の被爆者の救護活動に従事しました。病院内で投下後の救護活動では、2年生が主役を勤めました。数少ない看護婦さんとともに昼夜を分かたず働きました。これも一年間教えを受けた赤十字精神の賜物だと思います。」(「被爆、終戦を体験した学生時代」『広島赤十字看護専門学校50年史』)(16)付近の火災の火の粉が飛んで来るので、ぬらした箒を火たたきに使い、必死に病院を守った。職員や看護婦生徒、被爆者の亡骸を火葬にするのも、看護婦と生徒の担当であった。上記の記述者と同級であった別の人も「あの日の鮮烈な印象は、生きている限り忘れることはないだろう」という書き出しで、当時の被爆者救護の状況を記している。人道研究ジャーナルVol. 2, 201359