「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 62/276

電子ブックを開く

このページは 「人道研究ジャーナル」Vol.2 の電子ブックに掲載されている62ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013「(被爆後)今朝までの家並みは崩れ、その間から血を流し、骨折した人々が日赤へ日赤へと歩いてくる。……級友は、先生方は、と考えるゆとりも何もない。唯、チンク油を塗り、リバノール液を浸したガーゼを手でしぼり傷口に当てていく。……夜が来た。焼跡に患者さんを横たえ、破れたまま放水している水道管でタオルをぬらして高熱の人々の頭を冷やした。……その後も死者は次々と増加し、その死者をダビに付すのも私たちの仕事であった。」(「忘れ得ぬ瞬間」『鎮魂の譜』)3広島市周辺における救護活動宮島の対岸にあった広島陸軍病院大野分院は、戦争末期に大野陸軍病院として独立していた。ここに派遣されていた本部臨時第8班の班員も「マグネシウムをたいたような強烈な閃光に続いて、腹の底に響く爆風」を体験した。まもなく「ひどいやけどの異様な姿の女性」が病院に辿りつき、午後にはさらに重症の人たちがトラックで運ばれてきた。「病院では治療法が分からないままに、やけどにチンク油を塗布する他、ガラスの破片の除去、骨折の手当などに忙殺されました。やけどに塗布したチンク油やリバノールガーゼは、熱のためにすぐパリパリに乾き、注射器に入れた生理食塩水を注いでしのぎましたが、人手も薬品も不足でした。」(『従軍看護婦の見た病院船・ヒロシマ』)(17)大野陸軍病院は被爆者救護に続いて、9月17日の枕崎台風の通過時に山津波(土石流)に襲われて倒壊し、患者と医療従事者に多くの犠牲者を出した。被爆者救護のため島根支部から派遣された臨時救護班の看護婦生徒2人も命を落とした。呉海軍病院へ派遣された広島支部第70班の人たちは、1945(昭和20)年7月2日の呉市空襲で宿舎が全焼して生活用品を失った。原爆投下の時、病院では「大音響とともに病棟の窓ガラスが強く振動を受け」「黒い玉と赤い玉がもつれ合うように遥か向こうの上空に現れ」たという。「間もなく広島へ新兵器爆弾が投下されたらしいとのことで、呉病よりは直ちに救護班を編成して軍医官、衛生兵、看護婦が、衛生材料、薬品を多数トラックに積みこんで広島に向い、火の中をやっと東練兵場に着き救護所を設けました。足の踏み入れる処もないくらい集まり来る生々しい火傷被爆患者の治療に専念いたし、練兵場の兵舎に収容し一部は呉海軍病院の壕に収容いたしました。」(「大東亜戦争下における呉海軍病院」『鎮魂の譜』)被爆当日の夕刻、山口県知事から臨時の救護班派遣の要請を受けた日本赤十字社山口支部は直ちに岩国海軍病院赤十字病院の看護婦と看護婦生徒で3救護班を編成し、広島赤十字病院と広島の東練兵場へ派遣し、翌朝から被爆者の救護に従事した。さらに第二次として4救護班が広島第二陸軍病院の向原分院や三次分院へ派遣され、移送されて来た被爆者救護に当たった(18)。また岩国海軍病院などには、被爆当日から被爆者が次々と搬送され、看護婦たちはその救護の上に多数の犠牲者の火葬に追われた。愛知支部第794班も呉海軍病院に派遣されて空襲を受け、同院の三次分院に移った後に原爆の「気味悪い音」を聞いた。直ちに非常緊急対策として備後十日市駅前に救護班が出て、広島市内から列車で移送された重症患者の収容と応急処置に当たった。「収容した患者のほとんどが酷い(むご)火傷を負い、ガラスによる痛々しい裂傷など、目をおおわんばかりの惨状にてんてこまい、……患者は丸裸で見るも無残な姿ばかりでした。……治療に当たる軍医や看護婦も人手薄で満足な治療もできず、マーキロとリバガーゼを当てるといった簡単な応急手当しかできず本当に気の毒でした。」(「思い出のピカドンで終戦を迎え」『あいち従軍看護婦の記録』)(19)広島第二陸軍病院三滝分院で被爆した兵庫支部第106班は、戦争終結の8月15日に芸備線沿線の井原市に60人道研究ジャーナルVol. 2, 2013