「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 64/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013「しかし私は[パニック]を超える力が彼らの中に内在していたことこそ最大の理由であったように思えるのである。すなわちそれは、苦しむ者を目前にした時の医者、あるいは看護婦としての使命観がそれであり、さらにいえばそうしたものさえ超えた人間としての義務、あるいは慈愛がそうさせたのではなかったのだろうか。」この筆者が注目した点こそ、赤十字を支える博愛精神―目の前の苦しむ人を救い、苦痛を和らげるという、人道に基づく行為である。そしてその実行の根本にあったのが、赤十字看護教育であった。赤十字看護教育の基底をなしたのは精神教育であり、戦時中の看護婦生徒の心がまえの基となったのが、次のような「救護員十訓」であった。一博愛ニシテ懇篤親切ナルヘキコト二誠実勤勉ニシテ和協ニ力ムヘキコト三忍耐ニシテ寛裕ナルヘキコト四志操堅実ニシテ克己自制ニ力ムヘキコト五恭謙ニシテ自重ナルヘキコト六謹慎ニシテ紀律ヲ重ムスヘキコト七勇敢ニシテ沈著ナルヘキコト八敏活ニシテ周密ナルヘキコト九質素ニシテ廉潔ナルヘキコト十温和ニシテ容儀ヲ整フヘキコト看護婦生徒はこの十カ条を暗誦して、常にその実践に努めた。この十訓の内容は、日常の看護業務だけでなく、戦時救護、災害救護の際に特に必要な心がまえであった。実際に救護看護婦の業績には、よく十訓の教えが生かされていたことは明らかである。病院船に勤務していた埼玉支部の元救護看護婦は、香港沖で敵の潜水艦から魚雷攻撃を受けた時、病室の患者が一斉に看護婦に目を向けたのを見て、「この人たちを助けなくては」と思い、「救護員十訓」の「勇敢ニシテ沈著ナルヘキコト」という項目が瞬時に浮かんできたと述べている(21)。また「敏活ニシテ周密ナルヘキコト」という教えも、赤十字看護婦の特色ともいうべき機敏な行動を生み出す原動力となった。「救護員十訓」の源となったと考えられる十カ条の教えは、すでに看護教育が開始された明治期の教科書(日本赤十字社編纂『看護学教程』1896年刊)の冒頭にも掲げてある。たとえば前掲の「敏活ニシテ周密ナルヘキコト」の元になったのは、「周密ニシテ作業ニ敏捷ナルコト」の項である。したがって昭和期の救護看護婦の行動の支えとなった「救護員十訓」のもとは、すでに明治期に形成されていたのであり、その間に発生した戦争、災害時の救護活動の原動力となっていたことが判明する。注(1) Heinrich von Siebold(1852 ? 1908)幕末に長崎に来たシーボルトの次男、博愛社社員となって、女性の看護事業への適性を指摘する演説を行った。(2)柴田承桂(1849 ? 1910)1883年に渡欧した際に博愛社の依頼で赤十字事業も調査し、翌年に欧州赤十字社概況という帰朝演説を行った。(3)『日本赤十字社史稿』第1巻日本赤十字社編・刊1911P.159 ? 160(4)『救護員生徒教育資料』日本赤十字社編日本赤十字発行所1911P.93(5)同上P.360 ? 361(6)同上P.367 ? 368(7)同上P.374(8)『日本赤十字社社史稿』第5巻日本赤十字社編・刊1969P.179(9) Dr.AnitaNewcombMcGee(1864 ??)日露戦争の救護活動参加を志願し、病院船にも乗務した。帰国に際62人道研究ジャーナルVol. 2, 2013