「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 88/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013広島での人道的行動ジャン・フランソア・ベルジェ1白田尚道2訳これまでの壮大な人道の歴史において、マルセル・ジュノー博士は特筆される人物であり、彼の行動は先見性を持ち、広範囲にわたっている。彼の行動と著作は彼が行った人道活動の普遍的なメッセージとその行動の限界を、その道の専門家と一般の人々に訴えている。広島への派遣は、第二次世界大戦前から大戦中の経験を綴った、かれこれ10年以上に及ぶ彼の自叙伝の中で独自の位置を占めている。…1.広島でマルセル・ジュノーが目撃した状況の回顧1945年6月のある晴れた日、マルセル・ジュノー博士はジュネーブを離れ極東へと向かった。目がくらみ呆然としてしまうような旅路につくことを、その時の彼に知るすべは無かった。人類の悲劇である広島へと赴くことになったのである。大戦中の当時の旅行は幾多の障害があり、とりわけ日本への旅行は容易なものではなかった。ジュノーに同行したのは横浜生まれで日本語が流ちょうな赤十字国際委員会(ICRC)の同僚、マルゲリータ・ストレーラー女史であった。彼らが取った経路はまるで地理の授業そのものであった。ジュネーブ・パリ間は列車で、その後パリ・テヘランは軍用機で移動した。ロシアの査証取得のため2週間待機させられた後、航空機でバクー、スターリングラード経由モスクワに向かった。8日後、シベリア鉄道でモスクワを出発し、キーロフ、ノボシビルスク、クラズノヤルスク、イルクーツク経由でチタに到着。チタに到着した7月19日から「死ぬほど退屈な」(1)7日間を過ごしてから、マルセル・ジュノーとマルゲリータ・ストレーラーは満州鉄道に乗り、ソビエトとの国境地点であるオプトルを通過した。ここから、日本が占領している中国領満州に入境したのであった。ハルビン、次いで満州里での小休止の後、彼らは満州の首都新京で三日を過ごした。ここから瀋陽に向けて飛行したが、新京に戻り、今度は列車で西安(訳注:現吉林省遼源市)に向けて出発した。マルセル・ジュノーにとって、鉱業の中心地である西安は非常に大事な場所であった。この地が産出する高品質の石炭ではなく、「ベルギー炭田に見られる灰色の長屋」(2)に拘留された二人の人物の存在によってであった。この二人とはコレヒドール要塞の守備にあたったアメリカのジョナサン・M・ウエインライト准将とシンガポールの前司令官であったイギリスのアーサー・E・パーシヴァル准将、いずれも連合軍の高位の軍人が日本軍によって3年も拘留されていたからである(3)。満州の奥地にこの2人の著名な収容者を訪問するという人道的な目的を果たしたことは、長い間ジュノーの心に刻まれた。同時に、彼のこの行動の影響がどれほどのものか計り知ることができないでいた。この行動により、南太平洋連合軍司令官マッカーサー将軍の大きな信頼を勝ち得ることができたのである。この訪問の後、ジュノーはマルガレータ・ストレーラーと共に、日本の軍用機で満州を後にした。数時間後、ジュノーは羽田空港の駐機場に降り立ち、やっと日本の地を踏むことができた。それは8月9日のことだったが、この日東京は炎に包まれていた。ジュノーは広島や長崎での出来事をまだ知らなかった。ここに、日本のICRC代表部を再構築して、事業再開にこぎつける段取りが始まることになる。1元赤十字国際委員会派遣員として30年近くカンボジア国境、東ティモール等東南アジア地域で活動。その後ジュネーブ本部において、バルカン半島やユーゴ問題を担当。1998年から2010年まで、「Red Cross Red Crescent」のICRC側編集者を務めた。人道問題歴史研究者、ドキュメンタリー映画のシナリオライターとして活躍している。2日本赤十字社コンプライアンス統括室参事86人道研究ジャーナルVol. 2, 2013