「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 89/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013日本に上陸してすぐに、ジュノーは数多くの大きな問題に直面した。東京は米軍による猛爆にさらされていた。ICRCの代表部は二年前から活動を休止しており、その活動の再開が急務であった、特に、日本列島の60以上の都市が米空軍による戦略的な爆撃により破壊されたことにより、人道的なニーズは数限りなくあった。東京で一晩を過ごしたジュノーは、自動車で標高1000メートルの軽井沢に向かった。そこに、大半の外交官や外国人が戦火を逃れて疎開していた。彼は、スイス公使の招待により、「深山荘」(訳注:当時スイス公使館)に身を寄せ、来るべく事業の準備にとりかかった。8月15日は日本が降伏したことを日本国民に知らせた日であるが、その日からジュノーは日本政府当局者や連合国側の代表者達との接触を重ねていた。東京湾岸で彼は米軍捕虜に面会し、とりわけ、大森の小島では身体的にすさまじい状態の人間に遭遇している。「これらの人々は200人の米軍飛行士で、日本側が大戦中に秘密裏に総司令部地下に幽閉し、やっと日の目を見ることが出来た人々であった。」(4)彼は続いて、横浜方面の横須賀港の海軍基地を訪問した。ここでは米海軍総司令部との最初の接触を試み、サン・ディエゴ号船上でバジャー提督と面会した。非常な努力の甲斐あって、ジュノーは日本の降伏に伴う新しい権力との数多くの接触を重ねていた。並行して、かれはスイス人と日本人の職員を雇用し、ICRC代表部の態勢強化を図り、丸の内界隈に事務所を構え、日増しに増える業務に対処した。ICRCは連合国捕虜に対する活動で大いに注目を浴びていた。ジュノーは広島と長崎の両核爆弾の爆発に関する信頼できる情報収集に強い意欲をもって腐心した。これは、この件に関する連合国高等司令部による絶対的検閲にもかかわらず行ったものである。8月30日、ジュノーの協力者の一人、広島駐在のフリッツ・ビルフィンガーから電信で現地情報を知らせてきた。この惨事の甚大さが推し量られる内容であった。「恐るべき状況、町は90%以上が壊滅、すべての医療機関は崩壊,等々、至急なる活動が必至」(5)。この時以来、ジュノーには唯一の優先課題として「広島の被災者救援のために広島に行くこと」であった。1945年9月9日ジュノーは原爆がさく裂した現場に15トンの主に血清プラズマを持参した。5日間にわたり、ジュノー博士は広島の医療施設の残骸を視察し、現地で治療を施し、たぐいまれなる同情と思いやりを示したのである。2.広島でジュノーが公的に目撃したもの彼が広島で過ごしたこの5日間の出来事は、20世紀の人類史の中で大きな問題として記憶される。マルセル・ジュノーの主要な体験は以下の2冊の著作により表わされていて、この著作の出版意義を躍如たるものにしている。『ヒロシマの惨禍』(6)と『第三の兵士』(7)である。これら2冊の重要な著作で、ジュノーは部分的に重複する要素があるものの、彼が見たこと、聞いたこと、さらに彼が理解したこと、行ったこと、そして人間として、医者として広島の惨禍が想起したことを詳述している。まず最初に、ジュノーの倫理観と知識を称賛しなくてはならない。とりわけ悲劇の現場で医師・ICRC代表として行動し、すべての観察を記録したことであるが、このことは10年前、エチオピア戦争の際のマスタードガスの影響の記述にも見られることである。ジュノーの広島滞在中に現地で同行した広島の若い医師は、ジュノーの働きぶりをこう語っている「ジュノー博士はどこでも記録を取っていました。博士は太芯の白いシャープペンシルを使っていました。この種のシャープペンシルでは長時間記述し続けることが可能ですし、ジュノー博士は街の隅々まで視察し、記録を書き綴り続けたのです。」(8)ジュノーが書き綴ったメモをもとに、広島出張翌月に報告書を提出し、さらに「ヒロシマの惨禍」のベースとなった。彼の文章は原子爆弾が人間とその周辺の風景に及ぼした影響を医療的な緻密さで描写している。彼は非常な精緻さで街の周辺部から中心部に向けての被害状況の段階的な悪化を再構成していて、6キロメートルにわたる恐るべき状況の中で、婉曲や誇張を交えず、彼が目撃した事実を伝えることを目指した。彼の描写人道研究ジャーナルVol. 2, 201387