「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 90/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013の力は一つにはその簡素な文体に起因するものである、「ここでわれわれが目にするものは破壊された都市であり、それは数キロメートルに渡って広がっている。すべては静寂であり、そしてすべては荒廃である。」(9)著作の第一部でジュノーは彼が現場で目にしたことや多くの目撃者の証言を記述している。とりわけ、広島(10警察署長の証言)は、爆発に続く時間の経過と、初動救護活動の開始に至る状況を非常な迫真性で語っている。ジュノーが報告したこれらの真実は、この悲劇を文章により写し撮った「写真」とも言えるものである。核武装に関する考察と題された第二部では、ジュノーは主題を拡大して、核兵器に関する見通しを展開している。人間に対するこの爆弾の影響を分析した後、彼はこの新兵器に対する防護方法について自問している。そのあと、この兵器の使用に関する感情のこもったアピールを発している。「毒ガスに対して行ったと同様に核エネルギーについても、不幸にして、その戦争が避けられないと仮定しても、それを戦争の兵器として使用することを禁止するべきである。」(11)『ヒロシマの惨禍』は1982年になってやっと公けにされた。出版された年の赤十字国際評論に概略が紹介された。特筆すべきことはアメリカ当局が1951年まで原子爆弾の影響についてすべての公開禁止を命じている(12ことである。マルセル・ジュノー博士の息子ブノワ・ジュノー氏)の洞察力のお陰で、その原文が在日スイス大使館で発見され、その後2005年に広島の惨禍の60周年を記念して全文が出版されている。ジュノーは広島の問題を著名な『第三の兵士』で公に取り扱っている。その著作の中で、彼は確固たる信念を持って1934年から1945年にわたるICRCでの人道的経験を詳述している。この著作の初版は1947年にランジエ(13)が行ったが、その時代は丁度冷戦の真只中であった。「死んだ街」と題された第20章には、著書「ヒロシマの惨禍」に表わされたジュノーの広島での5日間の出来事が再度登場している。これに加え最終章の直前である第21章では、マルセル・ジュノーを東京の第一生命ビルに招待したマッカーサー将軍との驚くべき会話が記述されている。驚くべきというのは、マッカーサー将軍はジュノーに対して予想もしなかった話を始めたからで、「力は諸問題の解決の方策ではない。力はつまらないものである。力は最終手段ではない…職業的殺し屋であるこの私がこのように語るのには驚きますか?」(14)その言葉に続き、心配そうな口調で「すべての物事が、人類を自分たちから救うために実行されていないとしたなら、何が起こるのでしょうか?」(15)とした。そして(ジュノーに)世界的な信頼を得ている赤十字が、救護の伝統的な枠組みを乗り越え、平和のために「精霊に成りかわって語る」(16)ことを提案している。『第三の兵士』が第二次世界大戦の結末に関して予備知識を持ち合わせない一般大衆に対し、その人道的な理想を普及するためにいかに役立ったかを強調することができる。あたかも、ソルフェリーノのアンリ・デュナンのように、ジュノーは広島で個人的な行動というプリズムを通して集団的な人類の悲劇の問題点を記述し、それに対する必要な心構えを一般大衆に提示している。彼の著作の信頼性から、ジュノーは真実の橋渡し役としての役割を同時に果たすことになる。ICRCの前委員長マックス・フーバー氏による魅力的な緒言が付された『第三の兵士』は出版当初から数多くの翻訳や再版がなされ、この著作の誘因力の強さを物語っている。カルヴィニスト的考えに支配された組織、それは英雄とか個人崇拝に抵抗を示す傾向があるが、ジュノーの個人としての証言は特記すべき特例として扱われている。しかし、ジュノーは広島の事を書き記すだけではなく、写真を持ち帰ることにも腐心した。松永医師はジュノー博士に出会った際、「どうして彼は写真機を持っていないのだろうか」(17)と自問している。その松永医師は、このスイスの医者が写真資料を駆使して現場で収穫した情報を裏付けるために活用していることを軽い驚きをもって認めている。松永医師はジュノーが出発する前に原爆被災者の写真、それは日本の大尉が見せた60数枚の写真であるが、それをつかみ取ったと証言している。大尉曰く、「失礼ですが、この写真をお渡しすることは出来ません。なぜなら、これらは軍事機密であるからです。」「そうすると、突然ジュノー博士は厳しいまなざしで、ドンと机をたたき、軍事機密とおっしゃるが、日本軍は既に解体されました。もし、この写真をずっとここに保管するだけでしたら、何の役にも立ちません。しかし、もし私がスイスに持ち帰り、世界にこの原子爆弾の悲惨さとアメリカの非人道的仕打ちを告発することが出来れば、それはもっと大事で、もっと価値のあることだと思いませんか。」(18)明らかにジュノーの提案に心を動かされ、大尉は同意し、これらの写真はその後広く世界を駆け巡ったのである。88人道研究ジャーナルVol. 2, 2013