「人道研究ジャーナル」Vol.2

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The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013研究ノートDr.ジュノーの幻の原爆被災者支援?Dr. Junod’s Unrealized Assistance to Atomic Bomb Victims?1東浦洋はじめにと付け加えたと書いている(6)。大佐古は、アメリカ軍最初のジュネーブ勤務が始まって丁度2年がたっが日本赤十字社へ派遣したアドバイザー(顧問)がた頃であるから、今から30年以上も前のことであ言わせたのだろうと、推論している。リエゾン・コミッる。元中国新聞記者大佐古一郎を赤十字国際委員会ティが国際支援を断ったとDr.ジュノーが報告してい(ICRC)にお連れし、当時の出版広報部長のピエール・るというのは、今でも記憶にあるが、日本赤十字社ヴィベール(Pierre Vibert)とICRCの社史第2巻”Deの誰かが同様の発言をしたと、ヴィベールなどICRCSarajevo a Hiroshima”(『サラエボからヒロシマまで』)職員から話があったという記憶は私にはない。そのを書いたアンドレ・デュラン(Andre Durand)に引ような話があったとすれば、リエゾン・コミッティき合わせた。アメリカ軍から贈られた15トンの医療以上に強い衝撃を受け、日本赤十字社のいったい誰(1資材)を広島に届けたDr.マルセル・ジュノー(Marcelが言ったのかと詮索を始めたに違いない(7)。Junod)が、その際に約束した診療所などについて、当時、共同通信の支局長は橋本明であった。「取材なぜICRCが実施しなかったのかというのが大佐古のが成功したことの喜びを独り占めできなかった」(8)主要な質問であった。大佐古は橋本と連絡をとり、パリ行きの夜行列車に乗る大佐古をコルナバン駅で見送るまで、二人の話ICRCの回答がはずんでいたのを記憶している。その時の話が、もはや大方のことは記憶から消えてしまった。し1978年9月16日の朝日新聞夕刊の社会面トップにかし、未だにはっきりと覚えているのは、Dr.ジュノー「GHQは隠そうとした」の見出しで掲載されている(9)。からそのような要請が正式に来た事実はない。GHQ記事には大佐古のコメントとして、「日本人が当時こと交渉にあたっていたリエゾン・コミッティ(連絡のような発言をしたことは考えられない。アメリカ委員会)(2)が広島救援の必要はない、と言ったという軍の卑劣なでっちあげだろう。米国は当時、特にソのが報告されている。その写しを提供するわけには連を念頭に置いて原爆被災の実情が世界に漏れるこいかない(3)が、文書庫にある史料から読み取ることとを恐れていた。これでDr.ジュノー博士のヒロシマができる、というICRCの回答があった。大佐古はへの愛情と崇高な人間性がますます明確になったとこの時の模様を、以下のように書いている。「やはり、評価した。」とある。取材を受けてこちらの真意が伝予想していたとおり、GHQは原爆投下後1か月経っわらないもどかしさを感じることが多々あるが、こても尚毎日のように死者が出ている広島の地獄図絵の時も少し違うという思いがした記憶がある。を、ICRCを通じて世界中、とくにソ連に知られるこ“Le Troisieme Combattant”(10)を『ドクター・ジュとを恐れて、打電を妨害したのだ。彼らはプレスコーノーの闘い』として訳出した丸山幹正は、その増補ド(新聞準則)で日本国内の言論、報道を弾圧した版に、この新聞記事の事実関係をICRCのミシェル・ばかりでなく、人道と博愛の赤十字活動まで抑圧しテステュ(Michel Testuz)に尋ねている(11)。テステュていたのだ。」(4)は1979年10月26日付けの書簡で、アメリカ側が、「GHQの手で揉み消されたことを明らかにした」(5)広島への医療援助に対し、妨害工作を行ったというヴィベール氏はリエゾン・コミッティだけでなく、考えは排除すべきだと結論している(12)。しかし、そ誰が言ったかは分からないが、「そのようなものをもの証左になるものを何ら提示してはいない。らっても仕様がない」と日本赤十字社の人が言ったこの問題は長いこと気になっていた。しかし、常1日本赤十字看護大学教授・日本赤十字国際人道研究センター長人道研究ジャーナルVol. 2, 201391