「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 95/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013ではないかと考える。Dr.ジュノーは確かにICRCによる救援計画を考えていた。しかし、これが実現できなかったのが「GHQによる揉み消し」というのは、大佐古の推論としか言えないのではないか。それ以上に私が問題にしたいのは、日本赤十字社の誰かが、海外からの支援は必要ないと言ったと大佐古が書き留めたこととは逆のことがDr.ジュノーによって報告されているのである。文書に書いていないことを、ヴィベールらが言ったとはとても考えられない。しかも、大佐古がジュネーブを訪ねた1年後の1979年12月に新潮社から出版した『ドクター・ジュノー武器なき勇者』を読み返してみると、このことは全く記述されていない。さらに同書では「日赤の島津名誉社長も当時を回想して“ヒロシマ救援が半ば現実化しようとしたのに、突然中止になった”と言っております。」と書いている(20)。「その後10年間に判明した幾多の貴重な実情を加筆して再版した」(21)のが、『平和の勇者ドクタージュノー~探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』であると大佐古はいう。日本赤十字社云々というのは果たして「貴重な実情」の一つとして加筆されたのだろうか。確かに、この「15トン」の医療資材について、日本赤十字社の了解なく実施されたものであるが、そのことで、日本赤十字社が辞退したとは、どうにも考えにくい。大佐古がどのような文書あるいは情報を入手して、日本赤十字社までがICRCによる国際救援を断ったと書いたのかは依然として不明である。もはや大佐古にこの間の事情について聞けない以上、Dr.ジュノーの残した報告、日記、メモなどをつぶさに見ていく必要があるだろう(22)。また、日本政府機関終戦連絡中央事務局が広島や長崎の被爆者に対するICRCによる国際救援を本当に辞退したのか、辞退したとすれば何故かについては、日本側の文書が残されているのであれば、これを調査する必要がある。戦後、日本赤十字社にはアメリカ赤十字から顧問団が送られ、青少年赤十字、奉仕団活動など日本赤十字社の組織改革を含め、大きな影響力を行使した。大佐古は、ミセス・セックススミスの仕事について日本赤十字社の元外事部長木内利三郎から聞いた話を引いている(23)。彼女を含めてアメリカ赤十字の顧問団からアメリカ赤十字への報告があるとすれば、その内容からこの問題を再検討してみる価値はあるだろう。アメリカ合衆国国立公文書館(NARA)の史料からアメリカ赤十字史料について照会した結果、同社の創設から1982年までの文書すべてはアメリカ合衆国国立公文書館(NARA)に寄贈されたことが判明した。その史料はワシントン郊外のメリーランド州立大学から敷地提供を受けて1991年に開設されたカレッジ・パーク(College Park)にあるという。同じ公文書館には連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の文書(RG331)も保管されている(24)。国会図書館にあるマイクロフィルムの原本を手に取って読むことができるのである。戦後に派遣されたアメリカ赤十字の「顧問団」(英語ではConsultants)関連文書については、1947年以降のものを閲覧することができた。しかし、残念ながらそれ以前の文書をまだ検索できていない。その代り、GHQ/SCAPの公衆衛生福祉局(略称:PHW)文書を納めたBox 9304、Box 9326とBox 9327を見ることができた。最初のものにはPHWの1945年8月21日から同年末までの日誌(Daily Journal)およびその関連資料がぎっしり詰まっている。Box9326には、アメリカ赤十字の特別代表G. R.ムーア(G.R. More)の提案を踏まえて、1945年11月15日付けでSCAPとアメリカ赤十字間で結ばれた協定書と、その改定にかかわる文書が納められている。さらにBox 9327には、赤十字活動関係文書ファイルが収納されており、その中にDr.ジュノーがSCAPに提出した文書も納められている。アメリカ赤十字の「顧問団」が日本赤十字社の組織改革に関与するのは、この1945年11月15日の協定書以降ということになる。大佐古が木内からのエピソードを引き、彼らが広島へのさらなる支援は必要ないと言わせたのではないかという推論は時系列的に成り立たないことになる。Dr.ジュノーは広島視察報告を1945年9月18日付けのメモランダムで、サムス大佐宛てに提出している。その中で、Dr.ジュノーは、広島の惨状を報告するとともに、ニーズとして、1冬に向かって約1,000人の傷病者を収容する木造のバラック、2一部損壊の病院修復のための窓ガラス、3ハエや害虫駆除のためのDDTであるとし、これらをジュネーブの赤十字国際委員会に要請する用意がある、と記している。さらに医師と看護師が広島で行えることはたくさんある。仮設病院設営できるだけの十分な資材とともにアメリカの医療団を派遣してもらえるならば、大人道研究ジャーナルVol. 2, 201393