「人道研究ジャーナル」Vol.2

「人道研究ジャーナル」Vol.2 page 96/276

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013変ありがたいと書いている。それも被災者の状態から考えて、せいぜい1~2ヵ月という短期間のことだろう、と支援の見通しを述べている。さらに、長崎の状況を自分は知らないが、多分同様だろう。長崎における救護活動についての情報があれば教えてほしい。9月5日のアピールに基づき、連合軍最高司令官が即座に対応したことに感謝を表明して、このメモランダムを結んでいる。その後、10月~11月中旬までの間に、サムス大佐との面会が数回行われている。SCAPからは、例の15トンの医療資材、とくに医薬品のどれが有用され、どれがあまり使われなかったかの報告をDr.ジュノーから聞きたいということ、Dr.ジュノ―自身、近く広島を再訪したいという考えがあるというようなことは記録されているが、問題の広島のニーズについて二人が話し合ったという記述を見つけることはできない。Dr.ジュノ―自身の報告(参考資料ⅡおよびⅢ参照)にあるとおり、駐日事務所の問題に頭を痛めていた。さらに当時のICRCの本来の事業である捕虜や在日外国人の「保護(Protection)」の問題に集中せざるを得なかったのではないかと考える。今後、アメリカ赤十字とSCAPの史料をさらに詳細に調べていきたいと考えている。日本政府の「政府機関終戦連絡中央事務局」との交渉内容が明らかになるような史料があればと期待する。この時点で考えることこのような今後の史料調査に課題を残しながら、この段階で私が考えるのは次の3点である。第1に大佐古が彼のドキュメンタリーを書く際にICRCの史料を実際に使えたならば、誤解や曲解あるいは思い込みによる筆がすべるような余地はなかったのではないかと思う。この意味で、ICRCが史料の公開を促進していることは大いに評価できると考える。第2に書かれている内容に少しでも疑義があるならば、その際に直ちに質さないといけないということである。公文書には書かれない、あるいは書き得ない真実も多々あることを我々は知っている。歴史の証人から「聞き書き」をしておくことは大いに意味があるのではないかと改めて思う。第3に、Dr.ジュノーについては、「15トン」の救援物資を広島に持ってきた「ヒロシマの恩人」という評価が一般的である。彼の果たした役割は、アメリカ軍の司令部に対して、ビルフィンガ―からの要請電と写真をもって交渉したことにある。現場を視察し、知事らに面会し、ある程度の支援要請を受けていた。しかし、その実現については、サムスからの「変更・削除」を求められ、占領下にある国では占領軍当局側からの合意を取り付けずして何かしら行動を企てるべきではないという原則から、これに固執せずに済ませてしまったのである。このことでDr.ジュノーを責める気にはなれないが、人道上のニーズの観点から、この彼の考え方の是非について考えてみても良いかも知れない。Dr.ジュノ―の行動を批判しようというわけではない。私がここで言いたいのは、「ヒロシマの恩人」という観点だけでなく、Dr.ジュノーの今日的意義は、むしろ非人道的な核兵器に対して執拗に迫った彼の鋭いアドボカシー志向にこそあるのではないかということである。この意味で、彼がその著書“LeTroisieme Combattant”に“De l'yperite en Abyssinie a labombe atomique d'Hiroshima”(エチオピアの毒ガスからヒロシマの原爆まで)とサブタイトルをつけたことに改めて注目すべきではないかと考える(25)。そして、国際人道法の普及にあたって、赤十字運動を推進する立場から重要なのは、国際人道法の法文解釈もさることながら、このような国際人道法の実際の適用の中で、その意義を高めるための課題を抽出し、議論していくことにあるのではないかと考える。注(1)この時に届けられた医療資材は15トンというのが定説になっている。しかし、Dr.ジュノーに先立って広島入りし、惨状を報告しているF.W.ビルフィンガーは「1945年9月9日、ファーレル将軍を団長とする米国原子爆弾災害調査団は、Dr.ジュノー医師と広島への医療物資約12トンを輸送する6機の飛行機を伴い到着した。」と彼の10月24日付けのICRC宛報告の中で記述している。また、同報告に添付された資料4には、1945年9月6日付けで連合軍総司令部から日本政府あてに出された覚書として「約12トンの医療物資を広島地区で日本人負傷者を救護している赤十字国際委員会のビルフィンガー氏宛に送る。」とある。(2) 1945年8月22日に成立した終戦事務連絡委員会の後継機関として、同年8月26日に終戦連絡事務局官制(昭和20年勅令496号)により設置された政府機関終戦連絡中央事務局のことと思われる。(3) ICRCは2004年4月に史料公開の内部規則を変更し、1996年に定めた文書公開を60年から40年に短縮している。大佐古の訪ねた時点で、Dr.ジュノーからの報告などはまだ史料公開の対象にはなっていなかったことになる。(4)大佐古一郎『平和の勇者ドクターDr.ジュノー~探せ!ヒロシマの恩人の軌跡』、蒼生書房、1989年、334頁(5)同上、335頁(6)同上、335頁94人道研究ジャーナルVol. 2, 2013