「人道研究ジャーナル」Vol.2

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「人道研究ジャーナル」Vol.2

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 2, 2013(7)今になって、何故このことを改めて問題にすることにしたかというと、「マッカーサーとDr.ジュノー博士の努力を裏切ったのは日本赤十字社である。」という記述をweb上で目にしたからである。(8)大佐古一郎、同上、338頁(9)毎日新聞、日本経済新聞も9月16日の夕刊で、この共同通信配信の記事を扱っているが、社会面のトップ扱いではない。(10) Le Troisieme Combattant. Verlagsanstalt Ringier & Cie, Zofingen1947 (最初の仏語版); Warrior without Weapons. JonathanCape Ltd, London 1951 (最初の英語版);英仏西版のリプリント版は1982年にICRCから出版されている。(11)丸山幹正訳『ドクター・Dr.ジュノーの闘い』、勁草書房、1991年、292頁(12)この「人道研究ジャーナル」の巻末掲載の参考資料Ⅲ(愛知大学大川四郎教授訳)参照。(13)同じく、巻末掲載の参考資料Ⅰ(14)丸山幹正訳、同書巻末ⅰ~ⅲ頁。テステュは「手元にある資料、特にDr.ジュノー博士の電文とレポートによれば、アメリカ政府及びアメリカ軍が、Dr.ジュノー博士の人道的任務に対して、非協力的態度を示したと考えられるものは何もないと思われます。事実Dr.ジュノー博士は再三に亘ってアメリカ軍の全面協力を得たと書いています。」(丸山幹正訳)とし、アメリカ軍の15トンの医療資材提供を引き、これを別の方法、例えば欧米の製薬会社や倉庫から調達となれば、通信網と輸送手段が絶たれていた当時、広島への物資到達にはもっと時間がかかっただろうと、書いている。Dr.ジュノーが考えていたと思われる支援計画そのものが何故実施されなかったかについては、何ら言及していない。(15)鈴木九万について、国立国会図書館リサーチナビによると、「1942.12外務省在敵国居留民関係事務室長、1945.9外務省参事官、1945.10終戦連絡地方事務局連絡官・横浜事務局長」とあるので、この電報が出された当時は、外務省在敵国居留民関係事務室長であったと考えられる。(16) 1945年10月24日付けのF. W.ビルフィンガーの報告書添付資料参照。日本赤十字社情報プラザ所蔵の元日本赤十字社外事部次長・元日本赤十字看護大学助教授太田成美訳を一部改訳(17) C.F.サムスは、「前進総司令部が税関ビルに設置されて間もなく、国際赤十字委員会(ママ)のDr.ジュノー博士とマーガリータ・ストラーラー(ママ)女史が私の事務所にやってきて」とある。竹前栄治編訳『DDT革命~占領期の医療福祉政策を回想する』、岩波書店、1986年、30頁、また『GHQサムス准将の改革~戦後日本の医療福祉政策の原点』、桐書房、2007年参照。(18) Dr.ジュノーの1945年11月9日付けICRC委員長宛て報告参照。丸山幹正訳同上、265 ? 266頁(19) Dr.ジュノーの1945年11月5日付け報告は、実は同年12月5日付けであると大川四郎愛知大学教授からご教示があった。ICRCアーカイブスのGeorges Willeminが広島平和記念資料館学芸部に宛てた書簡で指摘しているとのことである。(20)大佐古一郎『ドクター・ジュノー武器なき勇者』、173頁(21)大佐古一郎同上、381頁(22) ICRCの駐日代表部から入手したDr.ジュノーの11月9日付け報告では、彼自身の報告書は完成していないとしている。今手元にある遺稿である“The Hiroshima disaster”,International Review of Red Cross, September/October, 1982,No. 230, pp. 267~280 & November/December, 1982, No. 231,pp. 329~344(村木真知子訳「ヒロシマの惨禍」(赤十字新聞490号~499号、1983年5月~1984年2月参照)、令息Benoit Junod(ブノア・Dr.ジュノー)によって東京のスイス大使館で発見され、2005年にジュネーブのLaboret Fidesから出版された“Soixante ans apres : Le Desastre deHiroshima de Marcel Junod”所収の“Le Desastre de Hiroshima,Hiroshima , 6 aout 1945”(Erica Deuber Ziegler編『60年後:マルセル・Dr.ジュノーの“ヒロシマの惨禍”』37~84頁)が、ここでいう彼の報告書なのだろうか。ちなみに、ビルフィンガーが1945年10月24日付けで提出した英文報告書をDr.ジュノーは「新聞記者が記事にした内容以上のものではない」としている。11月9日付けのDr.ジュノーの広島についての報告を参考までに、別掲しておく。尚、この原稿の印刷中に、愛知大学の大川四郎先生からメールを頂戴し、広島視察時の手帳を、ブノワ・ジュノーが40年ぶりに自宅屋根裏部屋から発見し、父親の評伝をまとめるのに使っているとご教示いただいた。この手帳の邦訳について広島在住のある方に託したいとしながら、未だにそのコピーが送られていないとのことである。(23)大佐古一郎、同著336~337頁(24)国会図書館では1974年に秘密指定解除がなされたのを契機に、1978年からGHQ/SCAP文書のマイクロフィルムへの撮影作業を開始した。現在、1,539巻320,227枚のマイクロフィッシュ、マイクロフィルムとして保管されている。このうち公衆衛生福祉局(略称:PHW)文書として、マイクロフィッシュ5,556枚が含まれているとのことである。(25)別掲のJean-Francois Bergerの小論の締めくくりに「今日、マルセル・ジュノーの、紛争や危機の被災者に対するゆるぎないコミットメントは人類の宝であり、すべての人道活動に従事する男女に常にその意欲を刺激し、かつ強い動機をもたらすものである。それはダマスカスに始まり福島に至る。」と書いていることを想起して欲しい。人道研究ジャーナルVol. 2, 201395