ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014女・子供たちの仕事である毎日の水汲みの重労働から解放されます。こっちのほうもずいぶんやりました。東浦:いま自然流下式という話が出たんですけれども、最初にネパールの政府、水資源のところとか、あるいはUNICEFとか、ネパール赤十字と話をしていますと、「赤十字さん、山のほうはやらないほうがいいですよ。あそこは大変だから。人力で機材を上げなければいけない。それにコストがえらい掛かるし、大変なんですよ」という話を受けました。そうしましたら、プロジェクト計画協議のまとめのところで、当時のネパール赤十字の総裁の、シャー妃殿下から、アンナプルナ・ホテルに自分の部屋があって、そこで会いたいという話をいただきました。そのときに言われたのは、「ネパールはどういう地形かご存じですよね」と言われまして、タライという低地だけで井戸を掘っていればいいというものではない。ちゃんと山のほうまで面倒を見ないと、その人たちの生活はよくならないじゃないですか。しかし、その一方で政府あたりからは、そんなことをやったらとてもじゃないけれど事業は進まないですよ。「海外たすけあい」は1回だけという話でしたので、ある程度の成果を当該年度内に見せなければいけない。それが日さくという会社を使うという話になっていったんですけれども、そういう中でそんなところはとてもじゃないけれど手を出してはいけないなと思っていたところ、妃殿下からそういうお話だった。日本での募金状況が思った以上のようだという情報を得て、2ヵ所だけ自然流下式による水道事業を丘陵地域で実施するという提案をしました。たった2ヵ所かという形で、だいぶ妃殿下からはしぶられたんですけれども、とにかくやってみてください、パイロットですという話をさせていただいた。翌年行ったら、2ヵ所の資金で4ヵ所やっているんです。2ヵ所分のお金ではなくて、最初から4か所分の資金を計上させられたのかなと一瞬思うかたもあるかもしれないですが、そうではなくて、計上されていたマンパワーの費用を使わない方法を考えたんですね。ネパール赤十字の事業担当者は丘陵地域の村の小学校の先生たちに語りかけて、子どもを通じて、きれいな水が自分の手近にあるということがいかに意味があるのかということを話をした。子どもから両親に向かって、そういうことの手伝いをすべきじゃないかという話を持ち出させた。そういうことによって、結果的には4ヵ所できたんです。それが後々、青少年赤十字メンバーが「NHK海外たすけあい」とは別にお金を集めて、この事業に関わっていこうじゃないかという話になっていくわけですよね。井上さん、それを実際にご担当になったご経験をお話しいただけませんか。井上:はい。その前に自然流下式がなぜ始まったかという経緯がいま初めて解りました。東浦さんから伺っていたかもしれませんが、やはり、最初からではなかったんですね。「たすけあい」が始まった当時、私は当時の報道課で広報を担当していたんです。その時、東浦さんが蛯谷報道課長や私たちに、silent emergencyという言葉をよく言っていたんですが、申し訳ないけれども報道課内部では「これは売りものにできないよな。静かなる緊急事態で募金が集まるか?」という話をしていたんです。どうやって売り込むのか、報道課で新聞とか社内報を作っていたものですから…。しかし、理由を聞けばもっともなんですよね。もっともだけれど、それを国民にうまくきちんと理解してもらい、募金にまで繋げるのは、言うのはたやすいが難しいなと。戦略的に、silent emergencyを前面に出すのは広報的にはどうかという議論をしたのは事実です。ただ、いま考えてみますと、その視点は正しかったのだろうと思います。緊急災害ではお金が集まるけれど、持続する開発援助という視点では、国民の理解はまだまだ薄かった時代です。開発援助団体が結構力を持ってきて、NGOができ始めたのは、多分、アフリカ干ばつ以後の80年代以降じゃないでしょうか。インドシナとか、ああいう紛争をやっていた70年代、難民を助ける会ができたりで、こういう視点の団体はありましたけれども、いわゆる開発援助指向の事業をやるというのは、多分80年代のアフリカ干ばつ以降ではないかと。人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 119