ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014<講演録1から>岩倉使節団とジュネーブ条約Iwakura Mission and Geneva Convention日本赤十字看護大学東浦洋はじめに『米欧回覧実記』は、岩倉具視を特命全権大使として、欧米列強に派遣された使節団一行の行動について、大使随行の一人であった久米邦武が、太政官吏員として編集した記録である。使節団の主目的は欧米列強各国との友好親善、文物視察と調査であったが、各国を訪れた際に条約改正を打診する副次的使命を担っていた。不平等条項がそのまま明治新政府に引き継がれたことから、条約改正の早期実現は新政府の大きな課題であった。明治5年6月26日(1872年7月1日)をもって欧米15ヵ国との修好条約が改訂の時期を迎え、以降1ヵ年の通告を持って条約を改正しうる取り決めであった。大隈重信の発案に基づき、新政府は岩倉具視全権大使の下に、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らを特命全権副使に任命した。一行は明治4年(1871)11月12日(陰暦)に横浜港を出発し、アメリカからイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリアを歴訪し、訪問12ヵ国目のスイス訪問中の明治6(1873)年7月9日に帰国命令を受けた。7月15日にジュネーブを発ち、マルセイユから帰国の途についた。外遊期間の大幅な延長、当初の目的・権限を越えて条約改正交渉を行ったこと、木戸と大久保の不仲などから、「条約は結び損い金は捨て世間へ大使何と岩倉」と狂歌の題材にされた。欧米諸国の発展を眼のあたりにし、帰国すると内治優先の国内近代化路線をとった。わが国とジュネーブ条約との出会いウィーンの万国博覧会を視察後、全権一行はチューリヒ経由スイスの首都ベルンに過ごした。スイス大統領セレソール(Paul Ceresole, 1832?1905)と会見し、ジュネーブに入ったのは6月29日であった。『米欧回覧実記』に7月1日「午後より某氏の別荘に至る」という記述がある(1)。この某氏とはいったい誰なのか。持田は7月4日付けのジュネーブ日報に「湖上を遊覧、セシェロンで下船し、ギュスターブ・ママニエマ氏宅で行われた、同氏が会長を勤める障害者国際委員会に出席した」とあるので、この某氏の別荘とはギュスターブ・マママニエの別荘であったと推定されるとしている(2)。大山巌の伝記である『元帥公爵大山巌』には、「6月29日、岩倉大使の一行、ジュネーブに到着し、7月1日、大使とともに軍医の集会に出席。第一烈翁のカピテンたりし瑞西のゼネラル・デュプール氏等も亦来たり、会談数時間に及んで、頗る愉快を極めた。」(3)とある。このゼネラル・デュプールとは、スイスの英雄デュフール将軍(Guillaume-Henri Dufour, 1787-1875)に他ならない。岩倉使節団一行は7月1日の午前中は時計工場を視察しているから、午後の「某氏の別荘」で行われたのを大山巌は「軍医の集会」としていると考えられる。(4次の史実を指摘したい。負傷兵救護国際委員会)(現在の赤十字国際委員会)の7月2日の議事録により明らかなのである。世界貿易機関(WTO)に近く、レマン湖の対岸にサン・ピエール寺院、そして晴れた日にはモンブランを望むセシュロン(Secheron)にあるパーク・モワニエにその館は現存している。このVillaMoynierは国際人道法・人権研究大学院の本部となり、2008年に国際問題・開発研究大学院と統合された。問題の議事録にはSumii Tomomi Iwakura、Jushii Hirobumi Itoとあるが、正二位岩倉具視と従四位伊藤博文のことである。この二人と全権大使の秘書、在日スイス領事M. Siberらをギュスターブ・モワ二エ1この論考は、NHK文化センター青山教室で講演・収録され、2010年2月の毎週日曜日20時から21時までのNHKラジオ第2の「NHKカルチャー・ラジオ」において、「人道の旗の下に~赤十字150年」と題して、放送された講演の第2回「『国際人道法』の発展」の一部である。掲載に当って、「です。ます調」から「である」調に修正するとともに、多少加筆した。人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 19