ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014(Gustave Moynier, 1826-1910)のセシュロンにある「夏の館」での午後のお茶に招き、ジュネーブ条約について説明したところ、大いなる関心が表明された。しかし、この条約の原則を日本に適応するには時期尚早であり、難しいとのことであったと記録されている(5)。この国際委員会が発行している「Bulletin International」1873年10月の第17号には、日本使節団と面会した理由、協議内容について、より詳しく報告されている。要約してみる。国際委員会は、赤十字活動をヨーロッパ以外にも伝播させるために、特別な関心を払い、努力してきた。しかし遠方の地でただちに赤十字活動が伝播するとは考えていない。アメリカは別として、ヨーロッパ諸国のような進歩した文明に到達しているとは考えられないからである。ヨーロッパ文明と異なる文明の国にあっては、自分たちが戦場において傷ついた交戦相手を不憫に思い、慈悲の気持ちからいたわりを示しても、ヨーロッパ人の営みを理解しないだろう。彼らの戦争法ではそのような手加減は問題外だからである。いわんや、負傷者救護協会(現在の赤十字社)となると、かれらには無意味なものであろう。しかし、国際関係の多様化する世界にあって、今後望まれるのは自分たちヨーロッパの国際法が世界で通用するようになることである。平和の中で不測の事態を予見しておくことは重要である。赤十字運動の拡大は欧米以外の諸民族に道徳的な転換をもたらす。それも一朝一旦でできるのではなく、変化には時間を要する。あらゆる契機を見逃すべきではない。ヨーロッパ文明に門戸が開かれているところで、博愛精神を拡げていくこと、この観点で日本からの使節団に赤十字を紹介することは意義深いものだと考えた。私たちの要望により、スイス連邦大統領セレソールは、使節団に説明する機会を持てるように取り計らってくれた。「幸いにも、日本使節団の随員らは、好意的に私たちの話に耳を傾けてくれた。私たちの熱意に共感を示す、実に進歩的な人もいた。団長の全権大使正二位岩倉具視閣下、副使の従四位伊藤博文閣下は、立て続けに行った何度かの会談で私たちが行った説明を真摯に傾聴して下さり、私たちの刊行物をお納め下さった。閣下らが私たちに光栄にも投げかけた質問の数々からは、赤十字思想の種を何とか日本へ持ち帰りたいという熱い思いがうかがえた。」(6)「Bulletin International」には、次のようなことも書かれている。岩倉、井上らは第一に日本国民が条約の遵守について不慣れであることから、日本政府がジュネーブ条約に加盟するには時期尚早であり、第二に公的な軍衛生部隊の業務を補完するためのボランティア活動を呼びかける前に、この衛生部隊の業務自体を妥当な水準にまで立ち上げなければならないことを、日本人として初めて認識した。日本に帰国後、日本軍内部における諸改革に取り組むこと、赤十字活動について連絡をとることを認めた。したがって、今回の一連の協議は赤十字にとって大いに意義あるものであった。「後日吉報を本誌の読者にお知らせできるであろう」(7)と結ばれている。この報告から、協議は1回だけではなく、数回にわたって「立て続けに」行われたということが分かる。全権一行がこの会合に積極的に関わったのは何故だろうか。それだけ日本側にとっても、この協議が、興味深いものであったと言えることは確かである。しかし、『米欧回覧実記』には先ほど引用した「某氏の別荘云々」以外、赤十字やジュネーブ条約に関係すると考えられる記述は全く見当たらない。『米欧回覧実記』の7月2日の午前中、4日、5日の午前中、6日と7日、11日、13日の一行の行動については何も報告されていない。このいずれかの日々にジュネーブ条約についての協議(もしくは講義)が持たれたのではないだろうか。それにしても、「某氏別荘」という奇怪な記述を含め、この協議については何故何ら報告されなかったのかという疑問が残る。その疑問について考える前に、全権一行がジュネーブを発った後に、モワニエが取った行動を見ておこう。アンベールへの日本事情照会モワニエは8月16日付けで、エイメ・アンベール(Aime Humbert, 1819-1900)に日本の戦時法規について照会しているのである。アンベールはスイス時計協会会長で、 1863(文久3)年、日本市場開拓を目的にした修好通商条約締結使節団長として来日した。余暇を利用して、当時の日本の風俗、習慣などを観察してノートに書き綴り、雑誌に連載のうえ、『幕末日本図絵』(8)として1870年にパリで出版している。アンベールは9月20日付けでこの照会に対して以下のように報告している。16世紀の戦国時代の日本には20人道研究ジャーナルVol. 3, 2014