ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014戦時法規はなく、何らの歯止めもなかった。しかし、日本国民全体としては、温和で、人間味があり、平和を好む。日本の現政権は旧武士から帯刀の特権を奪い、封建制度を廃止した。倒幕の戦いでは、非人道的な行為は見られなかった。捕虜の虐殺や軍務官による死刑判決を下すこともなかった。したがって、赤十字思想を伝播するには、日本は格好の国であると確信する(9)。アンベールは、日本陸軍がフランス軍制で建軍されており、衛生部隊が徐々に編成されてきていること、外国人医師が開業しており、ドイツの大学で医学を修める留学生の数も増大すると考えられることなどから、ジュネーブ条約に日本政府が加盟するように提案するのは時宜に適っているとしている。また、ボランティアによる救護組織、すなわち赤十字社を編成するには、政府主導で行うことを勧めている。このアンベールは岩倉使節団がベルンに到着した際に歓待し、ジュネーブを発つ前日の14日に全権側が招待した晩さん会に出席し、宿泊して一行を見送っている「元日本ニ差出セル使節『ニューシャーテル』郡ノ『バンベルト氏』」(10)のことと考えられる。しかし、モワニエは何故このような照会を、全権一行がジュネーブを発った後にしているのだろうか。前掲の議事録に回答があるように思われる。岩倉使節団との協議内容報告の後に続いて、ロンドンからの報告が記載されている。ペルシャのシャーが、ジュネーブ条約に加盟する用意があるという。委員会を非難しているアンリ・デュナンがシャーと面会して、このことについて話し合っているようだと言うのである(11)。アンリ・デュナンは、1867年8月25日付けの書簡で、委員会の書記を辞任する旨パリから委員会宛に通知した。これに対して、1867年9月6日付けの委員会の議事録では、委員会の書記のみならず、委員会の委員をも辞任することを了承するという回答を送ることにする、としている(12)。爾来、デュナンとモワニエら委員会幹部との関係は完全に相容れないままであった。アンリ・デュナンが第1回のノーベル平和賞を受賞した際にも、赤十字国際委員会側では、委員会委員長を50年近くも続け、委員会を発展させた功労者であるギュスターブ・モワニエこそ、受賞に値するものという意見が出された位である。このことから、アメリカを別として、ヨーロッパの戦争に対する考えを共有しないはずのヨーロッパ以外の国から最初にジュネーブ条約に加盟する国として、委員会は日本を選んだのではないかと考える。デュナンが押すペルシャに対抗する意味で、モワニエはセレソール大統領に依頼してまで、岩倉使節団一行と協議する必要があったのである。そうでなければ、アンベールへの照会は岩倉使節団との協議の前にあって然るべきものではないだろうか。モワニエら委員会幹部にとっては、アンベールと岩倉使節団の関係を見た上で、日本にジュネーブ条約加盟を促すための後付けの論拠が必要だったと考えられる。『米欧回覧実記』に記載されなかった理由の一つ岩倉たちがジュネーブ条約への加盟、現在の赤十字社の設立に関心を持ちながら、即座に反応しえなかったのには、日本側に何らかの理由があったと考えられる。ジュネーブ条約加盟に先だって、日本軍内部における諸改革に取り組む必要があると岩倉らが述べていることについては、ジュネーブ側の著述にあると指摘しておいた。他に何かあるのだろうか。その一つとして、「赤十字」標章についての当時のわが国における考え方について触れておきたい。元老院において「赤十字」標章が問題とされていたのである。初代陸軍軍医総監を務め、蘭疇と号した松本順は、幕府の招聘で派遣され、長崎の出島で教えていたオランダ軍医ポンぺ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1828~1908)から西洋医学を学んだ。明治3(1870)年に大阪軍事病院内に軍医学校が開設されると、ポンぺに代わってオランダ海軍軍医アントニウス・F.ボードウィン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820-1885)が、また明治4(1871)年4月からはT. W.ブッケマ(Beukema, Tjarko Wiebenga, 1838-1925)が軍医教育を担当している。この二人の教授科目として「赤十字社(13規則」の講義が行われていたという記録)がある。ジュネーブ条約や各国に作られ始めたボランティア救護組織、すなわち赤十字社に関連することであったのだと推察できる。「赤十字」の存在は、1870年頃には一部の人々の知るところとなっていたのである。明治5(1872)年東京に軍医寮が置かれることになり、松本順は軍医療旗の制定を命ぜられた。彼は「赤十字」標章を書いて提出したところ、元老院議官たちから「耶蘇の印人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 21