ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014を選定する松本順は日本陸軍を愚弄して居る者で実にけしからぬ男・・・突き戻して考えさせろというすさまじい勢いで返されて来た。」という逸話がある。「日本の首脳部というものの集まりはこんなものかな、議論する値打ちのないものに弁解は無用、然らば委細承知」というので、縦の棒を一本とって赤一字として出した。「いや、これなら文句どころか、日本一という一の字になる。一は物の始めでもあり、物の頭でもある。万事こうでなくてはいかん。」至極簡単に決定して日本陸軍軍医寮旗は以後横一文字の印となった。「御一新の当時は攘夷家が多くて訳の分からなかったことは随分甚だしかった」と述懐している」(蘭疇翁昔日譚)(14)。軍医総監で第4代日本赤十字社社長となった石黒忠悳は『懐旧九十年』で、この赤一字は、将来赤十字の使用が認められた暁には、赤の縦線を加えれば良いと考えたからだとしている(15)。大正2年に刊行された陸軍軍医団編の『陸軍衛生制度史』では、最初地色の青の旗を持って病院の章としていたが、その後赤一字を使用した。「是レ蓋シ赤十字章ヲ使用スルニ至ルマテ仮用シタルに過キス」として、明治4年12月12日に軍医寮より兵部省へ上申したことが引用されている(16)。赤十字章使用の件については、明治4(1871)年以来しばしば上申されているのである。国立公文書館所収の「公文録陸軍省之部」の壬申、すなわち明治5(1872)年の9月15日付けで山縣陸軍大輔は正院御中として、軍医寮の徽号として赤十字を使用したいという先般の伺いについてこれを用いてはならないというご沙汰があったので、「赤一字」を用いているが、世界の各国とも赤十字をもって医院病院の徽章として使っている。戦争に際しては近隣の各国より医師は誰もが「十字章」をつけ、治療を助けている。これを(赤)十字社と称している。1862年スイスで諸国が集まって、病院医員を局外中立と定めたことからその国の旗章をもって記号としたもので、「赤十字はスイス記章」であるので、赤一字の徽号をわが国が使っていると在留外国人はどのように見るか、「世界普通ノ赤十字相用申度此段更ニ相伺候也」と申し入れている(17)。これに対して、10月18日に左院は、陸軍省から軍医病院の徽章として西洋の諸国と同様「赤十字」を用ママいたいという申し出があったが、これは「千八百六十年瑞西人ヂュナント傷人病者ヲ保護スヘキ為盟約ヲ各国ニ結ハシ事ヲ志シ数年其事ヲ論説シ遂ニ各国政府ニ同意シ其事ヲ協議センカ為其代任ヲジョ子ブ都ニ差出シ此ニ會議シテコンバンジョンドジョ子フ即チショ子ブノ定約ヲ結ビテ其規則ヲ定メ」たものであり、「十字徽章」はスイスが盟主であることから「白地ニ紅ノ十字即瑞西国旗ノ裏章」とした。右の通りであるので、この条約の締約国以外が使用すると問題とされるかもしれないから、スイスにお伺いをたて、了解のうえで、公然とその徽章を用いれば海外に対して不都合の懸念もなく、医院病院局外中立の実をつらぬくことができると存ずる、とある(18)。正院は10月25日に外務省に対して、陸軍省の申し入れと左院の回答を付して、外務省に審議の上回答を得たいと申し入れている。外務省からの回答は11月19日に提出されている。スイスで傷人病者を保護するための盟約を各国と結んだ際、アメリカ合衆国のような国は代表を出していない、(筆者注:事実は、いくつかの州からは代表が参加した)から「十字」の旗章を用いていない。「十字」の旗章を掲揚するのは戦時の際に局外中立を示すためであり、アメリカにはこれを必要としないと考えているからである。「皇國今日交戦ノ目的有ルニ非サレハ特ニ瑞西ニ謀リ十字旗ヲ請ヒ掲クルニ及間敷姑繁務ヲ省キ候方公便ニ可有之ト存候條此段回答申進候也十一月五日」としている(19)。これを受け11月19日付けで「伺ノ趣不被及御沙汰候事」と9月15日の山縣陸軍大輔から正院宛の文書に朱書きで、回答が出されている。このことは、大正2年に出版された陸軍軍医団編『陸軍衛生制度史』にも報告されている(20)が、公文書の書き写しの際に誤ったのか、公文書とは若干の字句上の相違が見られる。明治7(1874)年3月4日の陸軍本病院伺では、佐賀県の賊徒征討のため種々の機器を送付したが、これらが欧州製であったことから、「赤十字」がつけられていた。この赤十字を改造して届けることができなかったため、そのまま送付した。外国人の見聞はもちろん医学一般においても「赤十字ハ軍医一般ノ徽章と御国内市在ノ医生迄モ相心得居候得ハ却テ一字章ヲ怪候者多ク内外甚タ不都合ニ候間万国一般ノ制ニ倣ヒ赤十字章ヲ相用候様御詮議相成度此段再応相伺候也」とある(21)。日本赤十字社は日本政府がジュネーブ条約に未加盟であるだけでなく、このような事情で赤十字を名乗れなかったことから、中国唐代の韓愈(768-824)の『原道』の冒頭の「博愛之謂仁」(博愛之を仁という)から「博愛社」とし、明治10(1877)年4月6日に設立願書を岩倉右大臣宛に提出している。博愛社の標章は日の22人道研究ジャーナルVol. 3, 2014