ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014大給の語っているところでは、西郷従道の言うには、お考えは至極結構だが、賊と名のつくものは一兵卒といえども許さない。この言葉を聞いて大給は「アァしくじったと思った」。願書に添付した博愛社の規則第4条に「敵人ノ傷者ト雖モ救ヒ得ヘキ者ハ之ヲ収ムへシ」とする規定、つまり「敵味方の差別なく救護する」という考え方が明記されていたからである。官賊ともに傷病者を救う、すなわち戦闘力を失った者は賊と言えども陛下の赤子だからという考えであったのだが、「報国恤兵兵をいたわる事によって国に報いる」という名儀だけにして置けばよかったと思ったとしている。このような陸軍省内部の意見を受けて、岩倉は却下せざるを得なかったと考えられる。「岩倉公が肌をぬいで肩を入れて下さらなかった原因も解かって大いに後悔した」と大給は語っている。岩倉はこのような陸軍の考えを事前に察知して、佐野から休暇願いが出たのを幸いに、彼に休暇を与えるのではなく、九州に出張させ、征討総督である有栖川宮に直訴させ、その判断をお任せしようとしたのかもしれない。あるいは、佐野に休暇願を書かせたのも岩倉であったのかもしれない。いずれにしても、佐野が願書を出して、翌日に休暇願を出したのは、いささか唐突すぎるのではないか。神戸から海路九州へ向かった佐野は29日に長崎に到着し、5月1日に熊本に向かう。博愛社の設立を急いだ佐野は、有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決して、熊本の司令部に願い出た。有栖川宮の日記では5月2日に佐野議官来営とあり、5月3日に博愛者設立願書を聞き届けたことが記されている。戦場の惨状を見ていた有栖川宮としては博愛社設立を認めない理由はなかった。博愛社設立願書に朱書きで「願之趣聞届候事。但委細ノ儀ハ軍団軍医部長へ可打合ノ事5月3日」とある(27)。また、同日、太政大臣三条実美宛てに博愛社設立を許可した旨通知している。日本赤十字社の創立記念日がなぜ5月1日になったのかということが疑問として残る。1877年の博愛社創設時に、宮内省から1,000円、さらに1883年3月からは皇后陛下のお手元金から毎年300円が下賜された。1886年に博愛社が看護婦養成のため病院を建て、日本がジュネーブ条約に加盟し、翌年日本赤十字社に名称を改めた頃から、宮内省からの御下賜金は、毎年5,000円に増額されている。1888年から1890年にかけて、赤十字の新病院建設に際しては、4万平米の敷地と10万円の資金が下賜されている。これらは、1884年参議兼務のまま宮内卿に就任した伊藤博文の意思が、強く働いたからではないかと推察される。ちなみに、オリーブ・チェックランドは『天皇と赤十字―日本の人道主義100年』の「まえがき」で、日本赤十字社は岩倉と伊藤の2人の創案になるものであって、とくに「機知に富む伊藤が、・・日本赤十字の創業を促したのは事実である」としている(28)。1873年7月、ジュネーブにおける数回にわたる協議の歴史的意味1873年7月1日から数回に行われたジュネーブでの岩倉全権と伊藤博文副使らの(赤十字)国際委員会の委員たちとの協議は、その後の日本赤十字社の発展に多大な影響を及ぼしたと言える。日本側がモワニエらの話を、興味深く、しかも数度の会談までして尋ねたのはなぜだったのかを考えてみたい。岩倉使節団はスイスに入る前に、ウィーンで万博を視察している。後に日本赤十字社の創設者となる佐野常民は、当時ウィーン万国博覧会事務副総裁であった。佐野は1867年のパリ万博に出展された赤十字館を見て、赤十字に大いに関心を抱いたという。全権一行を迎え、条約への加盟と赤十字社の設立の必要性を熱心に説いた可能性があるのではないか。佐野からの話が伏線としてあり、セレソール大統領の計らいで、ジュネーブでモワニエらに面会したのかもしれない。しかし、そのこと以上に、全権一行の条約改定交渉のその時期までの経緯・成果を考えてみれば、ジュネーブ条約への加盟を勧誘されるということに、全権一行として、「立て続けに」面会することになる素地があったと考えられるのではないだろうか。不平等条約改定に対し、何らの進展が見られない中で、国際条約への加盟勧誘されたことは、「文明国」として認知されているということに他ならない。全権一行がジュネーブ条約あるいは赤十字運動に積極的に関心を示すことになったのはこのような理由からではないかと私は考える。文明の証とも考えられる国際赤十字が日本を差別せずに国際赤十字の一員として認めることは、不平等条約を改定するために苦闘していた彼らにとって特別な重要性を持っていたと考えられる。明治10(1877)年8月1日に、博愛社は日本政府から正式に認可された。明治12(1879)年10月の社員総24人道研究ジャーナルVol. 3, 2014