ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014会で、ジュネーブ条約加入の希望が表明されたが、実際に日本政府がジュネーブ条約を締結したのは明治19(1886)年のことである。明治20(1887)年、社名を日本赤十字社と改称することになった。この時にも、博愛社の名称は世の中に知れ渡っているとの理由で反対する意見があった。また、赤十字標章を採用することについても、キリスト教との関わりを疑い、反対する意見もあった。結局は世界文明国に伍して同一事業を行う場合には、世界共通の名称・標章を用いるのが便利だということで、日本赤十字社と改称された。明治6(1873)年7月のジュネーブの協議から4年後に博愛社が誕生し、13年後には、ジュネーブ条約に加入し、日本赤十字社と改称するに至ったのである。明治41(1908)年社史編纂委員会が組織され、明治44(1911)年12月に刊行された「日本赤十字社史稿」には、次のように記述されている。「耶蘇教国外ノ人民ニ赤十字事業ノ設立ヲ疑ヒタル欧米人ノ夢想ヲ破リ十数年ノ短日月間ニ於テ早クモ先進各社ト駢馳セントスルノ勢ヲ呈シタル日本ノ赤十字」(29)。先に紹介したBulletin Internationalの記事内容と見比べてみると、大変興味深いものがある。おわりに明治20(1887)年9月、第4回の赤十字国際会議がカールスルーエで開かれた際に、森林太郎、のちの鴎外が参加している。この会議に「新医学を我日本に輸入したる」ポンぺもオランダ代表として出席していた。鴎外の父森静男は松本順に蘭学を学んだので、林太郎自身、貴方の門下生だと自己紹介している。会議は、ヨーロッパ以外の地で戦いがある場合、傷病者の救助をなすべきかどうかという、オランダ赤十字社の提出した議題をめぐって議論百出した。林太郎はヨーロッパの救護社だけが救助をなすものとの考えから発せられたものであるから、「もし決を取るに至らば日本人は賛否の外に立つべし」と発言したと『独逸日記』に書いている(30)。アメリカの代表は黙っていた。翌日会議は再開され、林太郎は再び立って、「亜細亜外の諸邦に戦あるときは、日本の赤十字社は救助に力を尽くすこと必然ならんと思考す」と発言したところ、Bravo!という。ポンぺが傍らを通るとき、自分の肩に手をおいて、笑みを浮かべて行ったと報告している。また、ジュネーブ条約を軍隊に普及する策を議論した際に、「日本にてジュネフ盟約に注釈を加へ士卒に頒(わか)ちたる報告をなし、その印本数部を」見せている。驚嘆をもって迎えられ、これより日本代表を見る目が前日とは「その趣を殊にせり」。日本赤十字社が国際赤十字の一員として認められたのが9月2日のことであるから、その直後のことである。この時の公式の議事録と林太郎の記述には若干の相違点がある。自分の発言を美化し、誇張しているところがある。あるいはそう発言したつもりだが、ヨーロッパ何者ぞという彼の気負いが、議事録には書ききれなかったのかもしれない。気概は十分に感じられる。話は少し後のことになるが、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で次のように書いている。「この時代の日本人ほど、国際社会というものに対していじらしい民族は世界史上なかったであろう。・・・欧米の各国が・・野蛮国と見ることを異常におそれた。さらには幕末からつづいている不平等条約を改正してもらうにはことさらに文明国であることを誇示せねばならなかった。文明というのは国家として国際信義と国際法をまもることだと思い、(中略)陸海軍の士官養成学校ではいかなる国のそれよりも国際法学習に多くの時間を割かせた。」(31)(1)久米邦武編・田中彰校注『特命全権大使米欧回覧実記』第5巻、岩波文庫、初版1982年、103頁(2)持田鋼一郎「スイスにおける岩倉使節団」(米欧回覧の会編『岩倉使節団の再発見』、恩文閣出版、2003年3月、79頁、また現代語訳『特命全権大使米欧回覧実記』第5巻、慶応義塾大学出版会、2008年6月、109頁、注(5)参照)。「障害者国際委員会」とあるのは、「Comite International de Secours aux Blesses」の誤訳と思われる。下記中(4)参照。(3)『元帥公爵大山巌』、大山元帥傳編纂委員代表尾野實信、大山元帥傳刊行会、巧藝社、昭和10年3月、355頁(4)1875年12月20日に現在のComite International de la Croix-Rouge(赤十字国際委員会)とする前の当時の名称。なお、1863年2月17日の創立時はComite International de Secours aux Blesses. Commission special de la Societe en faveurdes Militaires blesses durant les guerres、あるいはSociete genevoise d’utilite publique. Comite International etParmanent de Secours aux Militaires blesses en temps de guerreと称していた。1863年3月17日にCommissionspecial de la Societe d’utilite publique pour les Secours aux Militaires blesses des armeesもしくはComite Internationalet Permanent de Secours aux Militaires blessesとなった。また同年8月5日にはComite International de Secours auxMilitaires blessesと称している。1864年3月23日には、Comite Internationalと簡略標記も見られる。Proces-Verbaux人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 25