ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014研究ノートジュネーブ条約150周年極東の一番端の国とジュネーブ条約日本赤十字社企画広報室情報プラザ泉沢守行ジュネーブ条約の誕生1859年(安政6年)6月、イタリア統一戦争で激戦が繰り広げられた北イタリアのソルフェリーノの丘(フランス、サルディニア王国=ミラノ、トスカーナその他の都市国家=連合軍15万人、オーストリア軍17万人の合計32万人で、死傷者が3カ国で4万人を超えたという)で悲惨な光景を目の当りにしたスイス人の青年、ジャン・アンリー・デュナンはソルフェリーノの丘にほど近いカスティリオーネという村で、村人たちとともに差別なく負傷した兵士の手当てを行った。デュナンがこの地に来たのは、当時、フランス領であったアルジェリアで製粉会社を興すべく、その水利権を得るためフランス軍を追ってきたのである。ところが、現地の惨状に行動を起こしたデュナンはスイスに帰国後、農民婦人、旅行者らとともに行ったソルフェリーノでの救護体験を綴った『ソルフェリーノの思い出』という本を1862年(文久2年)11月に出版、戦時における国際救護体制の樹立を訴えた。本が出版されるや否や、「敵味方の別なく負傷者を救護する」というデュナンの考え方は、ヨーロッパ諸国に大きな反響をまき起こし、フランス、イギリス、ドイツ、ロシア、ベルギー、オランダなどの王室や軍部から熱烈な賛同者が現われた。特に、デュナンの構想の具体化について最初に取り上げたのは、ジュネーブ公益協会である。同協会の会長である法律家のギュスタブ・モワニエは、デュナンのほか、スイス軍司令官アンリー・デュフール将軍、ルイ・アッピアとテオドル・モノワール両医学博士の5人で、デュナンの計画実現のための委員会を組織した。赤十字の誕生は、この5人委員会が結成された日を記念して1863年(文久3年)2月17日とされている。また、委員会の名称も「負傷軍人救護国際常置委員会」に正式に決定した。なお、負傷軍人救護国際常置委員会は1875年(明治8年)12月20日、現在の名称である「赤十字国際委員会」に改称した。デュナンの計画に援助を約束した16カ国の代表36人がジュネーブに集い、1863年10月26日から29日まで最初の国際会議を開いた。36人の代表者は、4日間にわたり5人委員会の提案を検討した結果、10カ条の赤十字規約に合意した。しかし、各国からジュネーブに足を運んだ36人は、あくまでも個人の資格で集ったもので、この規約によって赤十字の根源ともいうべき大原則が確立されたものの、戦場で救護に従事する人や看護する場所、野戦病院などに中立性を与え、安全を保障するということは、民間団体の約束ごとでは不可能であった。そこで、同委員会は救護活動の安全が確保できる国家間の約束、すなわち条約を締結すべく、規約決定会議の参加者らに働きかけ自国政府に条約を結ぶように熱心に勧告した。その結果、規約制定の翌年、1864年(元治元年)8月8日から22日まで、欧米16カ国の政府代表24人がジュネーブに集い、全文10カ条から成る最初のジュネーブ条約、「1864年8月22日のジュネーブ条約」をベルギー、デンマーク、スペイン、イタリアなど12カ国の代表が調印した。残るアメリカ、イギリスなど4カ国はその場で調印しなかったものの、のちに条約に加盟した。ここに人類史上画期的な紛争時における約束事である最初のジュネーブ条約が誕生、その後、人道法の発展とともに、ジュネーブ条約も今日まで改正が重ねられてきている。薩英戦争とジュネーブ条約この最初のジュネーブ条約である「1864年8月22日のジュネーブ条約」を明治政府が承認し、加盟したのは、1886年(明治19年)6月5日のことである。しかし、日本とこの条約との出会いは、ジュネーブ条約の成立直前、つまり江戸末期までさかのぼることになる。人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 27