ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014それは、1862年(文久2年)9月14日に東海道の公使館に臨時通訳官として雇われる。以後、幕末から生麦村(現在の横浜市鶴見区)で発生した生麦事件で1870年(明治3年)7月まで通訳官として活躍、公使ある。この事件は、当時日本に滞在していたイギリス館退職後、明治政府に雇われ、母国ドイツを中心に外人商人、チャールズ・リチャードソンら4人が神奈川交官として明治政府の建国に尽力した。また1880年から川崎に通じる街道を馬で遠乗りに出かけた時、江(明治13年)2月には、井上馨らとともに日本赤十字戸から国もとに帰る薩摩藩の大名行列に出会い、島津社の前身である博愛社の社員となり、在ドイツの博愛久光の家臣に刀で殺傷され、リチャードソンが死亡、社社員としてジュネーブ条約加盟の調査、1884年(明2人が重傷を負った。治17年)にジュネーブで開催された第3回赤十字国イギリス側はこの事件で幕府に賠償金10万ポン際会議に橋本綱常(つなつね=当時は陸軍軍医総監、ド、薩摩藩にも事件の加害者をイギリス士官の立ち会安政の大獄で処刑された橋本左内の弟)とともにオブいのもと、糾問し処刑すること、さらに被害者並びにザーバ参加した。遺族に分配する賠償金2万5,000ポンドを要求した(1)。ウィリアム・ウイルスは1861年(文久元年)に来幕府側は賠償金の支払い要求に応じたものの、薩摩藩日、生麦事件の際、医官として護衛隊とともに事件現はなかなか応じず、業を煮やしたイギリス側は1863場に駆け付け、悲惨な惨状を目撃した一人である。年(文久3年)8月6日、オーガスタス・レオポルド・1868年(慶応4年、明治元年)に起こった鳥羽・伏キューパー提督率いる7隻の艦隊で横浜港を出港、鹿見の戦い、戊辰戦争で薩長連合や新政府の依頼を受児島湾(錦江湾)に向かった。け、負傷者の手当てを行った。記録の残る限り、このこの時、イギリス公使館員8人全員が同行したが、時日本国内で初めて、幕府側と薩長連合の負傷者を差旗艦ユーリアラス号には休暇中のラザフォード・オー別なく手当てした人物であろう。また人道上ばかりでルコック公使の代理、ジョン・ニール中佐、臨時通訳なく、中立性を守る「敵味方の別なく」がウイルスの官のアレキサンダー・シーボルトが、アーガス号には活動条件であったからである。医官のウィリアム・ウイルス、通訳官のアーネスト・さらに明治政府の要請を受けたウイルスは、公使館サトウらが乗船していた。の江戸副領事にも拘らず、1869年(明治2年)3月かここで、当時のイギリス公使館の主なメンバーを紹ら東京神田で大病院と称された「大学東校」(東京大介すると、ラザフォード・オールコックは、1859年学医学部の前身)で病院と医学校の指導にあたった。(安政6年)6月に初代駐日総領事として来日、同年この時ウイルスから指導を受けた石黒忠悳は日赤第412月には公使に昇格。翌1860年(万延元年)9月、代社長である。だが、新政府は大病院の指導にあたら外国人として富士山を初登頂、登山後に熱海に逗留しせる一方で、2人の蘭方医、岩佐純と相良知安に医学た。1863年(文久3年)に「大君(たいくん)の都」教育制度の改革を担当させ、ドイツ医学の方針を取っを出版している。たため、翌1870年(明治3年)に大病院と公使館をアレキサンダー・シーボルトは、1828年(文政11辞職した。同年、西郷隆盛らの招きで鹿児島医学校年)幕府禁制の日本地図を持ち出そうとしたとして国長・付属病院長に就任、1877年(明治10年)1月に外追放処分を受けたフィリップ・フランツ・フォン・西南戦争が勃発すると、同年3月に鹿児島を離れ、東シーボルトの長男。1858年(安政5年)に日蘭通商京に滞在していたが、6月に外務省から解雇通告を受条約が結ばれ、父親のシーボルトに対する追放令も解け、帰国した。除された。翌年8月オランダ貿易会社顧問として13アーネスト・サトウは1862年(文久2年)9月8日、歳になったばかりのアレキサンダーを伴って長崎に再イギリス公使館の通訳生として横浜に着任、以来、駐来日。1861年(文久元年)6月、父親が対外交渉の幕日期間は1883年(明治16年)までと駐日公使時代の府顧問となり、長崎から横浜経由で江戸の赤羽根接遇1895年(明治28年)から1900年(明治33年)まで所(現在の港区東麻布1丁目)に移り住むが、同年の間を併せ、実に25年間になる。ちょうど日本の大11月には江戸退去を命ぜられ、翌1862年(文久2年)きな変革時であった幕末から明治を外交官として見た5月に息子アレキサンダーを残し、長崎から帰国する。ことになる。1866年(慶応2年)3月から5月にかけ15歳2カ月のアレキサンダーは、父親が横浜を離て週刊英字新聞「ジャパン・タイムス」に連載されたれる1861年12月、オールコック公使のいるイギリス論文は、『英国策論』として翻訳出版された。28人道研究ジャーナルVol. 3, 2014