ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 20141877年(明治10年)2月、鹿児島のウイルスのとイムス』紙には、下院議員のチャールズ・バクストンころにいたサトウは、出陣直前(11日)にウイルス議員による「日本における最近の交戦状況」と題するを訪ねてきた西郷隆盛と会う。だが、護衛が20人い投書を掲載した。その中でバクストン議員は、鹿児島たため、会話は取るに足らないものだったという。外での火災は偶発的なものではなく、故意に意図したも交官という立場上、幕末から明治にあった人物との会ので、非武装の町民の家を破壊することが、今後の戦話を綴ったサトウの著書「一外交官の見た明治維新」争の先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろが有名である。しいことになるであろうし、イギリスの名声を汚すこの時期、幕府側では当然、外国人との会話の公用「恥ずべき犯罪行為」であると、艦隊を率いていたキ語をオランダ語にしていたため、イギリス公使館メンューパー提督を糾弾した。バーで日本語をよく理解できたのは、アレキサンダさらに、同議員は翌1864年(元治元年)2月9日ー・シーボルトだけであったと思われる。アレキサンに薩英戦争で鹿児島の町を焼き払ったことについて、ダーは来日後、父親の愛弟子から日本語を習っていた「文明諸国民の間で遵守されている戦争の慣例に違反のである。そのためニール代理公使も旗艦にアレキサする行為であり、下院はこれを遺憾に思う」という趣ンダーを乗船させたのではないだろうか。旨の動議を、下院議会に提出した。議会における薩英萩原延壽(のぶとし)著の『遠い崖―アーネスト・戦争に対する批判は、主として人道の立場から行わサトウ日記抄』(全14巻、朝日文庫発行)の「薩英戦れ、非難の対象となったのは鹿児島の町を破壊したこ争」では、戦争に至る状況から7隻の艦隊を率いた提とであった。長時間の討議の結果、バクストンの動議督がイギリス議会で責任を問われるまでの出来事をつは採択され、イギリス政府は「鹿児島の町を焼いたこぎのように明記されている。とに遺憾の意を表明し、鹿児島での攻撃は文明国の間鹿児島湾に到着したイギリスの艦船は、1863年8で行われる通常の戦闘に違反するものであり、キュー月12日に薩摩藩主に対する要求書を手渡し24時間以パー提督の個人的な責任を問う」ことを認めたのであ内に回答を求めた。薩摩藩からの回答書は13日の夜る。に届けられたが、オランダ語訳も、英訳もなく、日本この出来事は、1864年8月の最初のジュネーブ条語のままであったため解読時間を考慮して15日に薩約が成立する以前から、ヨーロッパ諸国ではその思想摩側の使者の来艦を求め、回答内容によっては強行手が浸透していた証である。また日本ではジュネーブ条段も辞さないことを付け加えた。約(赤十字条約)制定までが、ヨーロッパの地域で起薩摩側の回答は、加害者が発見できないこと、日本こった遠い彼の地の出来事と思われがちだが、実は日の国法では大名行列を妨げることは禁じられている本も当事国であったということを物語っている。が、そのことが諸外国との条約に記載されていないの無論、当時の日本国内は「幕府だ、薩摩だ、長州は、幕府の不行届きではないか。従って将軍と当藩主だ」と主導権を争い、あるいは「開国だ、攘夷だ」とのいずれに非があるかが判明してから、賠償金のこと言っていた時代だったので、おそらく、誰一人としては討議されるべきである。また今回、イギリス艦隊がジュネーブ条約を意識した人はいないと思われる。鹿児島に渡来することは、幕府から知らされておらず、薩摩藩は万事幕府の命によってしか行動し得ない佐野常民が赤十字と出会うとのことであった。日本赤十字社の前身である博愛社を1877年(明治この回答書を受けてイギリス艦隊は、薩摩藩の艦船10年)に創設した佐野常民は、佐賀藩主の鍋島直正3隻を拿捕したが、薩摩側もイギリス艦隊に向かっての命を受け、1867年(慶応3年)4月1日から11月砲撃を加えてきたため、艦に搭載していたアームスト3日まで開催されたパリ万国博覧会に佐賀藩代表としロング砲で応戦した。アームストロング砲は当時、最て参加した。新式回転砲でその威力は効果的で、薩摩側の砲台に打この時、日本からは幕府のほか、幕府の呼びかけに撃を与えたものの、城下の随所にまで火の手があが応じた佐賀藩と薩摩藩が出展した。幕府代表は、15り、一般市民をも巻き込む結果となってしまった。代将軍徳川慶喜の弟である徳川昭武を名代に、外国奉この薩英戦争の知らせは、ただちに本国イギリスま行の向山一履(かずふみ)、奥詰医師の高松凌雲、勘で届き、1863年(文久3年)11月4日付の『ザ・タ定方の渋沢栄一ら総勢29人であった。佐賀藩は、オ人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 29