ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014ランダで艦船建造の藩命を受けた佐野常民を代表に総乱)である。寛永14、15年(1637~38年)に宣教勢5人、薩摩藩は使節兼博覧会御用家老の岩下方平師らが絡んで起きた一揆の記憶が、未だ彼らの、そし(みちひら)を代表に総勢11人であった。て日本人の間に生々しく残る恐怖心であった。この万博会場で佐野は、会場内に赤十字国際委員会その後、アレキサンダーは1867年12月の昭武一行(当時は負傷軍人救護国際常置委員会)が出展したのイギリス訪問まで行動を共にしてパリに戻ると、日「赤十字館」を見て、初めてヨーロッパには紛争時に本の情勢(鳥羽・伏見の敗戦、慶喜の大阪城脱出)が敵味方の別なく負傷者を手当てする『赤十字』という伝えられ、一行の帰国が決定した。アレキサンダーも救護団体が存在することを知る。ドイツへ戻り、父の遺品の整理などに当たったと、萩なお、幕府一行には日本を出発する際にフランス側原延壽著の『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』のから通訳がつくことになっていたが、イギリス公使館「慶喜登場」と「外国交際」で、アレキサンダーが昭に勤務するアレキサンダー・シーボルトの父フィリッ武一行に同行した出来事を明記している。プ・フランツ・フォン・シーボルトがミュンヘンで急明治時代に入って佐野常民は、再び『赤十字』とい死したため、休暇を取ってドイツに帰ることになってう救護団体に出会う機会を得た。それは1873年(明いた。これを聞きつけた幕府側は、日本語を流暢に話治6年)に開催されたウィーン万国博覧会であった。すアレキサンダーがいた方が何かと都合が良いとしこの時の政府代表は、総裁に大隈重信、副総裁に佐野て、フランスまでの往路だけでも通訳として同行して常民ら総勢86人で、メンバーの中には町田久成(ひ欲しいとイギリス公使館に願い出て、1867年(慶応3さなり)、田中芳男、山高信離(のぶあきら)のパリ年)1月11日に昭武一行とフランスの郵船アルフェ万博の経験者のほか、津田塾大学の創始者である津田号で横浜港を出発した。梅子の父、津田仙なども含まれていた。また通訳兼世フランス側の通訳である長崎副領事のレオン・ジュ話役であろうが、兄のアレキサンダーと弟のハインリリは日本語が不得意だったため、長い航海でアレキサッヒのシーボルト兄弟も含まれていた。ンダーが何かと使節団の用事を行うようになっていっ兄のアレキサンダーは1869年(明治2年)2月にた。必然的にフランス到着後もアレキサンダーは予定休暇を終え、日本に戻ったが、その時に17歳の弟、を変更して、使節団の面倒をみることにした。昭武はハインリッヒを連れてきていた。その後、アレキサンフランスで6年間教育を受けることになっていたが、ダーは新政府から誘われ、1870年(明治3年)7月にその教育係としてフランス政府はメルメ・ド・カショイギリス公使館を辞職して、新政府に雇われていた。ンを充てることにした。一方、ハインリッヒはオーストリアの博物館の依頼をカションはイエズス会の神父で、1859年末(安政6受けて、日本美術の収集を行っていたが、1872年(明年)に函館に来日、1863年(文久3年)に初代駐日治5年)1月にオーストリア・ハンガリー帝国公使館フランス公使ギュスタブ・デュシェーヌ・ド・ベルク付の通訳練習生となり、万博の準備に関わるようになールの通訳として江戸に滞在し、一時、フランスに帰った。国するものの、再び1864年(文久4年)4月に日本ウィーン万博は5月1日から半年余り開かれたが、に戻り、第2代フランス公使レオン・ロッシュの通訳佐野はこの会場でも、赤十字活動がヨーロッパ各国にを務める。ちょうど、この時期フランスに戻り、日本広がり、発展を遂げていたことを目の当りにし、日本に来日予定であったが、昭武一行が渡仏することで、にもこうした組織が必要であることを痛感するのであフランス政府から一行の世話役としてフランスに留まった。っていた。実は、この万博会場に日本から大規模な使節団が訪「カションが昭武の教育係になる」ことは、すでに現れていた。その使節団とは、岩倉具視を特命全権大使地の新聞でも報道され、一般住民にも信じられていとして木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らとともに、た。ところが、この人選は日本側の了解なしに決めら1871年(明治4年)12月から1873年(明治6年)9れたらしく、アレキサンダーが同行の向山らにこのこ月までの1年10カ月間、米国、欧州を歴訪した岩倉とを伝えると、彼らは断固として拒否した。その理由使節団である。この時、同使節団はオーストリアに立は、ひとつは神父の性格であり、もう一つは、江戸初ち寄り、当時開かれていたウィーン万国博覧会を視期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆(島原の察、記録上残されていないものの、会場で万博の日本30人道研究ジャーナルVol. 3, 2014