ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014政府代表団の事務副総裁として派遣されていた佐野常それでは、なぜセレゾール大統領は、岩倉一行に対民らから、岩倉使節団一行が当時出展された「赤十字して「ジュネーブに立ち寄って欲しい」と進言したのパビリオン」を含めた会場内の説明を受けたことは容であろうか。その答えは、赤十字国際委員会易に想像される。(ICRC、当時の名称は「負傷軍人救護国際常置委員会」)のアーカイブの記録に残されていた。記録には岩倉使節団がジュネーブへ1873年6月21日付で、当時の総裁であるギュスタ本来、この使節団派遣の構想は1871年(明治4年)フ・モワニエがセレゾール大統領宛に連絡をしてい10月ごろに参議大隈重信の発案で、大隈自身が全権る。残念ながら、その内容が不鮮明で判読できないと使節となることで内定していた小規模な派遣団であっいうことだが、おそらく「大統領から日本の外交使節た。ところが、それを横取りするような形で、まもな団に対して、ジュネーブまで足を伸ばし、自分たちとく全権大使に岩倉具視、副使に薩長出身の実力者と留会うよう進言してもらいたい」といった内容であった学生40人以上を超える100人規模の使節団となってと思われる。いった。この中には、アメリカ留学生の8歳の津田梅現に、モワニエ総裁は7月1日に使節団と会見した子、12歳の山川捨松(のちの大山捨松)らも含まれ翌日の7月2日付(こちらは判読可能)で大統領宛にていた。「われわれの招待を岩倉具視、伊藤博文の両氏は快諾国内に西郷(隆盛)、大隈、板垣(退助)らが残るされ、会見で赤十字活動に多大な興味を示されたものとはいえ、太政大臣の三条実美は、廃藩置県後まだ日の、日本でジュネーブ条約の基本方針を施行することの浅い時期に、岩倉ばかりでなく、大久保、木戸ら新は、今はまだ困難である」という内容を報告してい政府の中心人物が揃って海外に出張し、長期にわたっる。また7月22日の議事録には、7月16日付で「岩て日本を留守にすることに内心反対であった。しか倉一行がジュネーブを離れる前日(14日)、ホテルでし、その三条も岩倉使節団の構想に押し切られ、同年大夕食会を開き、その会場に負傷軍人救護国際常置委11月20日には使節団の首脳人事の任命を行わざるを員会のルイ・アッピアが招待された」旨の連絡が記録得なかった。(途中、木戸と大久保が早めに帰国)されている。この使節団の派遣目的は、政府として「幕末期に条さらに、のちほど詳細を後述するが、日本がジュネ約を結んだ諸外国への国書の提出」、その条約(不平ーブ条約に加盟する前々年の1884年(明治17年)2等条約)の改正を翌年に控えた「条約改正の予備交月18日に、モワニエ総裁がベルリンにいた在ドイツ渉」、さらに「各国の近代的な制度・文物の調査と研博愛社社員のアレキサンダー・シーボルトに送付した究」であった。使節団は1871年(明治4年)12月23書簡の中で、1873年に日本外交使節団にあったこと日(旧暦11月12日)に横浜港を出発、アメリカ、イを明記している。この時のモワニエと岩倉具視らの会ギリス、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロ見の模様が、現在のICRCが当時発行していた機関誌シア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オース「赤十字国際紀要」の1873年10月号に『日本外交使トリア、スイスの12カ国で、さらにヨーロッパの帰節団』(L′Ambassade Japonaise)と題し、つぎのよ途、セイロン(現スリランカ)、シンガポール、サイうに掲載されている。1ゴン、香港、上海なども立ち寄って、1873年(明治6年)9月13日(明治5年に陰暦をやめて太陽暦を採【日本外交使節団】用、同年12月3日が突然、明治6年1月1日になる)国際委員会は、赤十字活動をヨーロッパ外にも伝に横浜港に戻った。播させることをこれまでにもしばしば行ってきた。前述したように、オーストリアのウィーンで万博を特に、しばらく前から、国際委員会は、この方面視察した岩倉一行は、チューリッヒを経由してスイスに、より特別な関心を払ってきた。だからといっの首都ベルンに入り、パウル・セレゾール大統領に拝て、国際委員会はこれら遠方の地において直ちに赤謁した。その際、大統領の進言もあり、スイスでの滞十字活動が伝播することを予期していたわけではな在期間を延長してジュネーブまで足を運んだのである。かった。=中略=なぜならば、これら諸民族は、岩倉が「負傷軍人救護国際常置委員会」総裁と会見1「赤十字国際紀要」10月号の日本外交使節団は、愛知大学法学部の大川四郎教授による翻訳の抄録である。人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 31