ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014けしからん男だ。こんな耶蘇の印を帝國陸軍ともあろうものが使用出来るか出来ないか、突き戻して考えさせろ」というすさまじい勢いで返してきた。松本は「日本の主脳部というものの集まりは、こんなものかなあ。議論する値打ちのないものに弁解は無用」といって、縦の棒を一本取って赤一字として出したところ、「いやこれなら文句どころか、日本一という一の字になる。一は物の始めでもあり、物の頭でもある。万事こうでなくてはいかん」と至極単純に決定したことが、鈴木要吾著「蘭学全盛時代と蘭疇(らんじゅ=松本順のこと)の生涯」(東京医事新誌局発行)に明記されている。また1936年(昭和11年)11月発行の「陸軍軍医学校50年史」のグラビアページには赤一字の入った「軍の正服」が掲載され、写真説明に1871年(明治4年)11月と明記されている。このことからも分かるとおり、軍医部の標旗が赤一字に決定したのは明治4年8月から11月の前までとなり、岩倉使節団が横浜港を出港したのが同年12月23日であるので、明治政府の要職であった岩倉らがこの出来事を知らない筈はなかったと思われる。それでは、なぜ松本順は軍医制度の制定の際に軍医寮旗に「赤十字マーク」を採用したいと、上層部に提出したのであろうか。おそらく、イギリス公使館の医官ウィリアム・ウイルスが鳥羽・伏見の戦いや戊辰戦争で敵味方の別なく負傷者を手当てすることにこだわったように、長崎などでポンペらの「お雇い外国人」から、解剖学などの医学的知識とともに、戦争時には医療関係者などが赤十字マークを掲げたり、衣服に付けて活動するのが、関係者が保護されて活動できる国際的なルールになっていることを、学んでいたのではないだろうか。もう1つの出来事は、キリスト教信仰のことである。萩原延壽著の『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』の「帰国」で、岩倉がイギリス公使館員との会談の中でキリスト教信仰のことを明確に語っている。同公使館のフランシス・アダムズ代理公使(ハリー・パークス公使の休暇中の代理公使)とアーネスト・サトウが1871年(明治4年)11月2日に岩倉のもとを訪ね、使節団派遣の構想を尋ねた。その時、アダムズは使節団が欧米諸国を歴訪する際、必ずキリスト教の問題が持ち出されることを指摘し、日本が文明開化という点で長足の進歩を示しながら、同時に文明諸国が信奉している宗教を依然排斥しているという事実、この矛盾をどう説明するかと問われた。これに対して岩倉は、「現在の日本において、キリスト教信仰の自由を公認することは出来ない。使節団がこの点について外国政府の要請に屈したら、それは使節団にとって、というよりも、御門の政府そのものにとって致命的なことになるだろう」と断言した。さらに、続けた岩倉は、「大部分の日本人はキリスト教を嫌っている。それは数世紀前に発生し、血なまぐさい内乱に終わった紛争(島原の乱)の記憶と結びついてる。キリスト教の禁止を解除することは、この国に革命を引き起こし、政府を転覆させる危険がある。そればかりではない。御門が天照大御神の直系の子孫であり、それゆえ神聖な人格であることを、日本国民が信じることが絶対に必要なのである。ところが、キリスト教は唯一神以外の何者をも信じるなという教えがあり、それと相反することになる。天皇が神の子孫であるという信仰が如何に必要であるかは、この数年間の出来事を思い出してみれば、すぐにわかるはずである。一握りの公卿(くぎょう)が雄藩(ゆうはん)と手を結んで、幕府を打倒することが出来たのはなぜなのか、それは、ひとえに御門の名前を掲げたからである。一言で言って、キリスト教信仰の自由を認めることは、政府の存立の基礎を危うくすることであり、この政府に好意を寄せている諸国は、まだ現段階でキリスト教の解禁を強要すべきではない」と説明した。この2つの出来事から、ジュネーブでモワニエに条約加盟をと問われた際に、岩倉は「条約の加盟は、時期尚早である」と回答したのではないだろうか。確かに、いまの時代では「赤十字のマーク」と「キリスト教のマーク」は、まったく別のものであると、すぐに判断できるが、当時の日本社会では別の物という判断が大多数の人々ができなかったのではないか。むしろ、現在の日本社会では、『保護』という赤十字マーク本来の意味から逸脱し、医療機関という意味合いで受け取られているケースも多々ある。これは現職の赤十字職員が日々努力して、本来の意味である保護のマークであることの普及をはからなければならない問題である。佐野、大給が博愛社を設立1877年(明治10年)1月29日から2月2日にかけて、鹿児島の私学校徒が政府所管の武器弾薬庫である草牟田の陸軍火薬庫、磯海軍造船所付属火薬庫を相次いで襲った事件を皮切りに政府軍と旧薩摩軍の間で西人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 33