ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014南戦争が勃発した。元老院議官の佐野常民は先述したように、慶応3年のパリ万博と明治6年のウィーン万博に参加して赤十字の存在を知り、かねてから日本でもこのような救護組織が必要であると考えていた。そこで、同じ元老院議官で、志を同じくする大給恒とともに、同年5月、念願であった民間の救護組織「博愛社」(日本赤十字社の前身)を設立、熊本、長崎などで負傷者の救護を開始した。歴史のめぐり合わせとは誠に不思議なもので、佐野常民と大給恒を引き合わせたのは、1873年(明治6年)にジュネーブを訪れた際にICRC会長のモワニエに「日本のジュネーブ条約加盟は、時期尚早である」と答えた、あの岩倉具視であったのである。1902年(明治35年)10月21日、日本赤十字社(博愛社)創立25周年記念式典が上野公園の日本美術協会で行われい」旨の願いも提出した。ただ、この時は軍の意向で、1医療体制がすでに整っているおり、新たな人材が入ってくると医療現場が混乱する、2欧米各国では国家間での戦争で救護の例があっても、内乱の場合には例がなく、そのように出来るか確認しがたいとの理由で、岩倉から23日付で届いた返答は、「願之趣難聞届候事(ねがいのおもむきききとどけがたきそうろうこと)」と2人の願いが叶わなかった。しかし、佐野はすでに東京での諸般の準備を大給に託し、博愛社設立のため、願書提出の翌日(7日)付で元老院に「50日間の休暇願い」を提出して京都経由で九州に向かった。後日、太政官は休暇届を、九州への公務出張扱いとする、粋な計らいをしている。1902年(明治35年)10月28日付の読売新聞にはたが、その際、読売新聞の特集記事に「博愛社創立の「西郷(従道)は、お考えはすごく結構ですが、賊と由来」と題した副社長大給恒の談話記事が掲載され名のつく者は一兵卒といえども許しません。だた、征ている。討のことは、すべて有栖川総督の宮殿下にお任せしてその10月27日付に「私はかねてヨーロッパには赤十字社というものがあって、傷病者を恤(あわれ)むということを聞いていた。ある日岩倉公を訪ねて、西洋にはかねてからあると聞く一大私立病院を建てて傷病者を救うことに致してはいかがでございましょうか。これを華族の事業とでもしたら、華族の勤め場所も出来て、世間の華族に対するそしりも消えましょうと申し入れた。岩倉公は、それは良い考えなので、いずれ考えて見ようということで別れた。それから10日ほどして岩倉公から呼ばれ、貴公の先日のお考えについて佐野常民からも同様の話があったが、貴公は一つ佐野と話し合ってみないかということであった。その頃私は賞勲局の創設で多忙を極めていたが、ある日佐野から訪問を受け、話がすぐにまとまった。佐野の考案で博愛社を作り、有志者から寄付金を募ることにした。しかし、仕事をするにも勝手に出来ないので、願書を西郷陸軍郷(従道)に提出した」という内容の談話記事が掲載されている。博愛社の設立請願書を西郷従道(つぐみち=西郷隆盛の弟)に提出したと語っているが、実は、1877年(明治10年)4月6日付で太政官の岩倉右大臣あてに、佐野、大給の連名で提出されたもので、岩倉を通して西郷従道に請願書が渡ったものである。また大給は同日付で、華族会の督部長であった岩倉に対して、「華族会で負傷者を手当てするために集めていた資金の一部を、博愛社の負傷者救助に使用させていただきたいるので、殿下にお願いになったらいかがでしょう」という記事が掲載されており、これを聞いた大給は早速、佐野にその内容を連絡、京都から長崎を経由して5月1日に熊本入りした。佐野は直ちに、征討軍団の総督本営に出向き、参軍山県有朋、高級参謀小澤武雄に面会し、博愛社設立の趣旨を説明し、設立の請願書と5カ条の社則を託し、征討総督有栖川熾仁親王殿下に取り次ぎを依頼した。この時、参軍山県らは博愛社の設立を褒め称えたという。熾仁親王日誌には、佐野が翌2日にブドウ酒5本を持って来営、3日にも来営して博愛社設立の許可を出し、その旨を熾仁親王殿下から京都に滞在中であった三条実美太政大臣に通知したと綴られている。請願書には赤字で「願之趣聞届候事(ねがいのおもむきききとどけそうろうこと)」と明記されている。早速、佐野は出身地の佐賀に戻り、活動資金の調達や医療スタッフの確保に奔走し、負傷者の救護活動を開始した。活動した医療スタッフには報酬が支払われたが、そんな中、1877年(明治10年)6月には2人の医療スタッフを無報酬で博愛社に提供した人物がいた。その人とは、細川護久(もりひさ)氏(元熊本藩知事、白川=熊本=県知事歴任)で、2009年11月からジュネーブにある国際赤十字・赤新月社連盟会長に就任している日本赤十字社の近衞忠煇社長の曽祖父である。さらに同じ6月に群馬県平民の中島愿仙氏が、翌734人道研究ジャーナルVol. 3, 2014