ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014月にも鹿児島県士族の福崎正之氏が、それぞれ自費で博愛社活動に参加した。すでに、博愛社の最初の活動で、生命の危険があるかもしれない中、自ら申し出て、現在でいうボランティア活動を行っていたということは、驚きである。この時、佐野らは1872年(明治5年)に制定された軍医制度の際の赤一字の出来事を知っていたと言われ、博愛社の標章は、将来いつでも赤十字に替えられるよう赤一字の上に赤丸を配した標章に決定した。1877年(明治10年)6月18日、熊本駐在の佐野常民から大給恒のもとに、「博愛社結社ノ允許(いんきょ)ヲ同所総督府ニ得テ既ニ救療(きゅうりょう)事務ニ着手セシ」と、博愛社設立の許可を受け救護活動を行っているという詳細な情報が届いた。このため大給は6月23日に岩倉公に「有栖川宮熾仁親王殿下から博愛社設立の許可を受けた」旨の報告を行った。世界の赤十字の仲間入りへ念願の救護組織を1877年(明治10年)5月に設立した佐野常民、大給恒は、出来るだけ早く政府がジュネーブ条約を承認し、博愛社も世界の赤十字の仲間入りをさせ、各社と交流を図りたいと考えていた。しかし、現実は数年間、博愛社の組織づくり、活動資金づくりにと奔走された。活動の拠点となる事務所は、腰を落ち着ける暇もなく設立から10年間で9カ所も転々とする有様であった。また活動の根幹を成す資金も、創設時の規則第2条で「本社ノ資本金ハ社員ノ出金ト有志者ノ寄付金トヨリ成ル」と定められていたが、その博愛社社員の出金が、年拠金(ねんきょきん)と呼ばれ具体的な金額が、年間3円以上12円以下(1月、5月、9月の3回に分けて拠出)と定まったのが、2年後の1879年(明治12年)6月であった。現在では、この年拠金が社費(しゃひ)と呼ばれ、赤十字社員は年間500円以上を拠出することになっている。さらに、翌1880年(明治13年)1月に外国人の社員加入も認められ、同月には大隈重信、山縣有朋、西郷従道、大山巌、渋沢栄一らとともに、ハインリッヒ・シーボルトが、翌月には井上馨、伊藤博文らとともに、アレキサンダー・シーボルトの兄弟も博愛社社員に加入した。ハインリッヒは社員として同年5月24日に開催された社員総会で演説(大給が代読)し、「外国の赤十字では女性が活躍し、病院で入院中の患者に女性特有のきめ細かなお世話を行う活動をおこなっている」ことを報告している。この発言がきっかけとなり、1890年(明治23年)から日本赤十字社は看護婦養成を開始したといわれている。ようやく、「世界の赤十字の仲間入りへ」という博愛社設立当時の思いを佐野常民が社員の前で告げたのは、創設2年後の1879年(明治12年)10月13日に開催した社員総会で、「欧州の各赤十字社と締約して、事業を発展させたい望みを持っている」ことを明らかにした。さらに、1882年(明治15年)6月26日に開いた社員総会の席上でも、佐野は「博愛社ノ主旨ハ至性(しせい)ニ基クノ説」と題し、講演した。その中で、「文明開化といえば、人は皆、法律の整備や機械の精巧製などを、その証だとしているが、私はそれだけでは立派な国家とは言えず、赤十字精神のような人道的な精神文化が国民の間に浸透してこそ、立派な国家であると思う」と説いた。さらに、総会の場で初めてジュネーブ条約に触れ、「諸外国の赤十字社と交流するため、早期に日本政府がジュネーブ条約に加盟することを希望している」と述べた。翌1883年(明治16年)5月にベルリンで「衛生、救難法に関する博覧会」が開かれるとの連絡が、外務郷(大臣)の井上馨を通じて農商務省から佐野、大給のもとに3月12日にあった。明治政府は内務省御用掛の柴田承桂を派遣することにした。そこで、佐野は柴田承桂に「ジュネーブ条約に加盟する調査や関係書籍の購入」を依頼するとともに、在ドイツの博愛社社員であるアレキサンダー・シーボルトにベルリンに行く柴田承桂のジュネーブ条約加入調査や書籍購入を援助してもらいたい旨の書簡を送付した。柴田はベルリンに旅立つ前(明治16年4月)に博愛社の社員になっていたものの、佐野から調査以来があった際、「博愛社社員になって日が浅いので」と、佐野の依頼に乗り気ではなかった。だが、博愛社としてもジュネーブ条約加盟の調査のため、人を派遣する財政的な余裕がなく、柴田に依頼する方法しかなかった。同年4月7日に開催された社員総会で、博愛社創設以来、総長を務められてきた小松宮彰仁親王殿下(東伏見宮嘉彰親王から明治15年12月に改名)が挨拶の中で、「ドイツで衛生・救難法の博覧会が開かれが、本社の目的は事業を拡大して諸外国赤十字社と交流して、最終的にはジュネーブ条約に加盟することである。この博覧会にはわが政府から委員を派遣するので、その委員にジュネーブ条約加盟の手続きの調査を人道研究ジャーナルVol. 3, 2014 35