ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014【欧州赤十字社日内瓦府(ジュネーブ府)公約ノ会でジュネーブ条約加盟の建議書を昨年12月に政府締盟ヲ講フノ議】に提出したことを、出席した社員に伝えた。しかし、[略]条約に賛成する国がますます多くなり、欧州政府からは未だ回答がなく、賛否を知ることも出来なの各国、南北アメリカ、アジアがすでに加盟していいと報告している。る。その始まりは、たった1社の民間組織に過ぎなかその後、大山巌、橋本綱常の2人が帰国、同年11ったが、いまや各国政府の同盟を得て、活発な活動を月12日に開かれた社員総会で、橋本軍医監が欧州各展開してきている。救護社を視察してきた「赤十字」と題する一書が社員わが政府の欧州文明の政治、法律、兵制、教育などに配られ、博愛社の新事務所と外科病院を建設するこの方法を採択し、いろいろな法律や規則を維新して国とを明らかにした。しかし、条約加盟に関しては、一家の開明に向かえば、物事が急速に進むことは枚挙に向に音沙汰もなく、時が過ぎていった。いとまがない。郵便法や電信法の如く、万国の条件になお、新事務所と病院は、1886年(明治19年)11加盟することは最も大きな、立派な事業と称されるで月に完成、病院の初代院長には橋本綱常が就任した。あろう。博愛社が政府に建議書を提出してから、1年半が過陸海軍拡張しようとしている今、ジュネーブ条約にぎた1886年(明治19年)6月5日、突如政府はジュ加盟することは、誠に立派な事業というべきである。ネーブ条約を承認し、条約に加盟した。同年11月10わが博愛社は明治10年西南の役に際して、佐野常日付で陸軍大臣の大山巌から博愛社総長の有栖川宮熾民、大給恒などが欧州軍人救護会社の例にならい征討仁親王殿下あて、「スイスで設立された赤十字社(ジ総督府の許可を得て創設、以来、多くの有志者が社員ュネーブ条約)を帝国政府は加盟、調印したことを外として入社し、盛況を博し、ジュネーブ条約に加盟し務省から知らせてきた。追って国民に布告するけれようとしたが、本社の資金力が乏しく条約加盟の調査ど、念のため(博愛社に)通知する。」旨の知らせがすら出来なかった。ところが、昨年ドイツのベルリン届いた。そして、政府がジュネーブ条約に加盟した布で衛生救難の博覧会が開かれることになり、政府から告は、5日後の11月15日であった。内務省御用掛の柴田承桂が派遣されることになった。日本政府のジュネーブ条約加盟により、博愛社も幸い、博愛社社員でドイツ在中のアレキサンダー・シ1887年(明治20年)5月20日、社名を「日本赤十字ーボルトと協議して、本社がジュネーブ条約に加盟す社」に改称、同年9月2日にはジュネーブのICRC総る手続きや加盟後の義務などの調査を2人でしてもら裁であるモワニエから佐野社長に「日本赤十字社を赤うことにした。十字社として公認する」旨の連絡が届いた。明治10その柴田が今年5月に帰国、その調査結果を報道し年5月に博愛社創設時に佐野が思い描いていた「万国た頃、シーボルトも調査報告書を送付してきた。現赤十字の一員になる」という思いが、この公認でやっ在、シーボルトは博愛社社員で欧州に出張中の橋本綱と現実のものとなり、この年9月にドイツのカールス常陸軍軍医監とともに、今年9月に開催予定のジュネルーエで開催された第4回赤十字国際会議に、日本赤ーブ国際会議(第3回赤十字国際会議)にオブザーバ十字社の初の代表として、当時幹事であった松平乗承ーとして出席するという報告をしてきている。(のりつぐ=のちの第4代日赤副社長)が出席した。さらに文明諸国と肩を並べて、ジュネーブ条約に加因みに、第4回会議の政府代表者は、陸軍軍医監の盟しても、自国と関係しない、他国の戦争においては石黒忠悳(ただのり=のちの第4代日赤社長)、陸軍必ずしも救護する必要はない。日本が他の同盟国と交一等軍医の谷口謙、それに当時ドイツに留学中であ戦した場合は条約が適応される。博愛社の現状では、った陸軍一等軍医の森林太郎(森鴎外)であった。その条約に対応可能である。また、赤十字の記号(標なお、アレキサンダー・シーボルトは、1892年(明章)は条約に加盟すれば、必ず採用されるもので、宗治25年)4月21日から27日までイタリア・ローマ教上関係するものではないため、ジュネーブ条約に加で開催された第5回赤十字国際会議にも当時ドイツに盟しても支障がない。留学中であった後藤新平(日赤正社員=のちの東京市長など歴任)とともに日本赤十字社代表として出席し条約承認で万国赤十字の一員へているが、それ以前の1889年(明治22年)4月271885年(明治18年)4月1日に開催された社員総日には、ジュネーブ(赤十字)条約加盟の手続き調査38人道研究ジャーナルVol. 3, 2014