ブックタイトル人道ジャーナル第3号

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概要

人道ジャーナル第3号

The Journal of Humanitarian Studies Vol. 3, 2014る…それらの試みが成功しているかは人々の判断にゆだねざるを得ない…我々に与えられた選択肢は、自己の決定を裁く他者たちの存在を拒絶して自閉するか、維持への絶え間ない努力を怠ることによって社会を崩壊させるか、さもなければ正義という形式によって共通理解をその瞬間ごとに構築することを通じて社会の存在を保つかのみ…社会の存続を望むのならば、正義について語り、労力を投入しなくてはならない。(大屋、2006)「政治」を「普及」に、「正義」を「人道法」に置きかえる。人道法が存立することを望むのならば、その維持への努力を惜しまない選択肢しかない、つまりその努力とは普及の営みそのものである。そのためには、普及の担い手自身が、人道法に内包する価値を発見し、それを個々の普及の実践に応じた人道法学習の動機付けを促す言葉に置換する作業…つまり、「人道法普及の動機の獲得」が、あるべき普及の実現にはまず不可欠ではないだろうか。上述の考察で、普及の担い手たち(ないし普及の文脈)の動機が、それぞれの人道法の強調される側面に違いをもたらしているように、人道法を学習する動機を普及の対象者と共有できてはじめて、普及で用いられる言葉は説得力を持ち始めるように思われる。そもそも考えてみれば本稿で触れてきたような普及の担い手…軍隊の指揮官、赤十字の要員、学校教諭のいずれもが人道法のスペシャリストというわけではない(法律顧問はスペシャリストに最も近い存在かもしれないが、専門知識だけで普及は実現しえないことは上述のとおりである)。彼らに普及の対象者を調教し、思想を扇動するような権威、権限はない。つまり普及の担い手自身も常に学習の機会が求められる意味で、普及の営みもまた、一度限りないし一方向での情報伝達で完結しえない教育的な観点を兼ね備えるべきものではないか。ある教育者は次のように言う。「教育」を普及の営みに置き換えても、これ以上付け加える言葉はないように思われる。問いと対話に対して常にオープンであることが、普及の行方を「思想扇動」への陥落から防ぐ手立てとなる。最後に、各国赤十字社の一員である小生の立場か4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ら言えば、日本においてはそもそも人道法の普及を4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4実践する機会自体が極めて限られている。普及の担い手たちが人道法普及の行方(ヴィジョン)を明らかにし、そのことが普及の実践機会創出の原動力になることを願ってやまない。その意味で、普及の行方の実証的検証はまだ始まってもいない。〔参考文献〕・大屋雄裕『法解釈の言語哲学‐クリプキから根源的規約主義へ‐』(勁草書房、2006年)・小西正雄『君は自分と通話できるケータイを持っているか‐「現代の諸課題と学校教育」講義』(東信堂、2012年)・岩本誠吾「米陸軍法務総監法務センター・法務学校作成の『作戦法規便覧2006年版』(1)」、産大法学40巻3・4号(2007)・Marco Sassoli, Antoine A. Bouvier & Anne Quintin, HOWDOES LAW PROTECT IN WAR?,(ICRC 3rd edition, 2011),Vol.3・ICRC, PREVENTION POLICY,(ICRC, 2010)・ICRC, ALL ABOUT EHL,(ICRC, 2009)・G. I. A. D. Draper,“Role of Legal Advisers in ArmedForces”, IRRC, No.202(1978)・Jean-Jacque Surbeck,“Dissemination of InternationalHumanitarian Law”, Am. U. L. Rev., vol.33(1983)・Laura A. Dickinson,“Military Lawyers on the Battlefield: An Empirical Account of International LawCompliance,”AJIL Vo.104:1(2010)一定の主義主張を掲げ、それを絶対善として教えるという行為は教育ではなく洗脳になる…内容の善し悪しではない。「理解」という最終到達価値を「教育」という言葉の前に付置してしまってはまずいのである。(小西、2012)44人道研究ジャーナルVol. 3, 2014